だが良い気分は台所に入った途端ぶち壊された。
「おはよう…」
朝の挨拶は老婦人の大きな声によって遮られた。 「すみません。ですが、東京のほうでやり残したこともありますし、友人達が祝ってくれるというので…」
嘘である。本当は高耶が来てくれるのだ。 「また仕事ですか?照弘、義明に仕事を押し付けるなとあれほど言ったでしょう」
「いや、母さん。別に俺は…」 ちょうど顔を出していた照弘は慌てたように手を振った。
「違いますよ、母さん。ちょっと友人の仕事を頼まれているんです」
春枝は驚いて言葉を区切り、ふと考え込んでしまった。
「母さん、私の朝ご飯は……」 だが義照の言葉は、再び春枝の低い声に遮られた。
「違いますよ。そんなに心配しないでください」 まだ疑わしげに息子を見る。先の一件で、どうやら義明はとことん信用を失くしたらしい。 「大丈夫です」
重ねて微笑む義明に、春枝はしぶしぶ承諾したようだ。 「母さん、私の……」 その時、玄関のチャイムが鳴り響いた。 「あら、こんな時間にどなたかしら?」
春枝は慌ててばたばたと出ていってしまう。 「……朝ご飯………」
「おーい、兄さん。父さんが朝っぱらから黄昏てるんだけど」 その母は、玄関先でお隣さんと歓談中である。
「そんなことより義弘。義明にどうやら女ができたようだぞ」 さらっとこういう言葉がでてくるあたり、兄達は弟の生態をよく理解している。
「そうじゃなくてだな。一緒に誕生日を過ごすような女だ。毎年誕生日なんて忘れてたくせに、今年は東京のマンションを使わせてくれと頼まれた」 わくわく、と顔に書いて聞いてくる兄に、義弘は少し嫌な予感がした。
「…それで?」
にっこりと告げる兄に、
「……家族サービスはどうするんだ」 万事抜かりがないようだ。この辺の如才なさは頭の回転の早い弟と張るものがある。 義弘は溜息交じりに呟いた。
「義明が怒るぞ…」 (行くだけで邪魔になると思うが) 義弘は思ったが、口には出さない。
「あの遊び人が本気になるような相手なんて、どんな人間だかお前も興味あるだろう?」 人当たりはいいが、誰に対しても同じように接するあの弟が本気にある相手。自殺を繰り返し、絶望していた弟が、側にいたいと願う相手。気にならないと言えば嘘になる。 「どんな女だろうな。年上か、年下か……。不倫じゃなきゃいいが」
兄の心はすでに弟の恋人らしい人物へと飛んでいるようだ。
(さぁて、どんな美人が出てくるかな)
「ん………なおえ……?」
ソファに長々と身体を伸ばしうたた寝をしていた高耶は、ぼんやりと目を開いた。 「なんだよ…。鍵くらい持って出ろよなぁ……」
ぶつぶつとぼやきながら、鍵を開けてやるため玄関へと向かう。
「お帰り………!?」
この場合、どちらがより驚いたのだろうか。 「こんにちは」 にっこりと笑いかける卒の無さは、やはり直江の兄である。 「あ……の……、どちら様ですか…?」 照弘の挨拶に我に返った高耶は、一応留守を預かる身だということを思い出し、戸惑いながらも尋ねた。 (なかなか礼儀正しいな) 実直そうな高耶の態度に好感を持った照弘は、さらに笑顔を深くした。 「私は義明の兄の橘照弘と言いますが、君は義明のお友達かな?」 この言葉に高耶が驚いて目を見開いたことは言うまでもないだろう。
(う〜ん……。まさか本当に友達だったとはなぁ…)
まさか男の恋人だとまでは照弘にも分からない。照弘は高耶を歳の離れた友人だとすぐに信じ込んでしまった。さらに、実家のほうにかかってきた高耶からの電話を取ったこともあるので、疑問を抱かなかったのだ。
「どうぞ」
照弘は恐縮した。ここは自分の家なのだから、自分がコーヒーを煎れるべきだったのではないか。そう思ったのである。 (一体どこで知り合ったんだか……)
義明も一見俳優のような外見をしている。だがモデルなどをした経験はないし、こう歳が離れていると、何が縁で知り合ったのかまったく見当もつかない。 「何か?」
よっぽど凝視していたのだろう。困ったような怒ったような顔をして真っ直ぐに見つめてくる。
「コーヒーおいしいね」
一瞬目を丸くして、また困ったような顔になってしまう。きっと何を言っていいのか分からなくて、戸惑っているのだろう。
「君の名前は?」 慌てて高耶が答える。
「仰木くんはどこに住んでるんだい」 そういえば義明は、松本まで車を飛ばしては、1日2日帰って来ないことがある。ということは、この青年に会いに行っていたのか――――? (何かおかしいな) 照弘は弟の行動に疑問を感じた。
「松本からわざわざ義明の誕生日のためにここに来たのかい?」 話が分からないというように高耶が首を傾げる。まるで他の誰かなどいなかったようだ。 (彼1人――――?) そうなのだろうか。それならば、あの弟は彼1人に会うために家族の誘いを断り、このマンションを借り受け、いそいそと2日からいなくなったということか? (おかしい) これは絶対おかしい。女にはまめだが、男には微妙に冷たい弟の行動とも思えない。 (本当にただの友人か……?) 照弘は浮かんだ疑問の答えを探すべく立ち上がった。 「ちょっと失礼。トイレに……」
そう言い置いて、玄関のほうから台所へ回ってみる。 (彼が作ったのか?)
冷蔵庫の中を見て唸っていると、コーヒーを飲み終えたらしい高耶がカップを持ってやって来た。
「あっ!それ、すいません。食べきれなくて…」 慣れた手つきでカップを洗い、元の場所に戻す高耶を見て、さらに疑問は深まった。
「なんだか綺麗になってるけど、もしかして君が掃除してくれたのかな」 まずかったかな、という顔をする青年に、照弘はにっこりと笑いかける。
「ありがとう。私も弟も不精でね。なかなか掃除をしないものだから、すぐ汚れてしまって」 高耶の声を聞きながら、照弘の頭は高速回転していた。 (誕生日にわざわざ遠くからやってきて、料理を作って掃除をしてくれる友人?)
そんな奴いるものか。それをしてくれるのは、世間一般では"恋人"と呼ばれる存在だ。
(まさかあの女好きがねぇ…)
(確かに美人だが) 「あの…?」 突然黙り込んでしまった照弘に、高耶は戸惑ったように声を掛けた。 「あ、いや、なんでも…」 ない、と言いかけたその時、玄関のドアが突然開いた。 「ただいま戻りました、高耶さん。おや、誰かお客ですか?」
「………それで、何の用なんですか、兄さん」 照弘は用意してあった書類をばさばさと直江に渡しながら言った。 「こっちに来る前に渡してくれれば良かったのに」 思わず愚痴めいたことを口にしてしまう。どう考えてもこの仕事は、照弘がこちらに来るための口実としか思えないのだから。 「仕方が無いだろう。おまえが出た後で気づいたんだ」 にやにやと笑いながら言われても、まったく信憑性が無いのである。
「それでわざわざ届けに来たのですか?」 まさしくそのつもりだった直江は、行動を読まれていることにさらに複雑な気分になる。 「………それにしても、おまえがあーいう趣味だとは思わなかった」
にやにやにやにやにや。 「……なんのことです?」 一応呆けてみせるが、効果はない。
「おまえにしては上出来と言うべきかな?」 高耶を誉める言葉に、ここは正直にこっくりと頷いた。照弘はさらににこにこと笑う。
「おまけに別嬪だしな」 子供の頃から散々迷惑をかけてきたこの兄には、何から何までばれてしまっているようだった。
「おまえにはもったいないんじゃないか?」 謙虚な弟の台詞に、照弘はおや、という顔をする。 「本当に私にはもったいないくらいの人です。だからといって他の誰かに渡すつもりもありませんが」
照弘は驚いてまじまじと義明の顔を見た。この弟がここまで執着を持つなんて、今までは考えられなかった。けれど納得できる気もする。恐らく彼と出会ってからだろうが、自分は弟の絶望の涙を見ていない。子供の頃から自殺をしかけては流した、あの涙を。 照弘と直江のために、コーヒーを煎れていた高耶が台所から戻ってくる。 「お客さんなのに働かせてすまないね」 照弘が言うと、高耶は「いえ、別に…」と口篭る。 「オレも泊めてもらったのに何もしてないから…」 その言葉に、照弘がにやぁっと笑ったのを見て、直江は思わず高耶の口を塞ぎたくなった。 「あの、何か…?」 照弘の不気味な顔に驚いたのだろう、高耶が尋ねる。どうやら墓穴を掘った自覚はないらしい。 「いや、実は義明には友達が少なくてね。君のように泊りに来てくれる友達がいると分かって、安心したんだよ」 まるで取って付けたような言い訳だが、照弘が言うとなぜかもっともらしく聞こえる。さすがは会社社長というべきか、はたまた人徳か。高耶はそれで納得したらしかった。 「これからも義明をよろしく頼むよ」
と笑う照弘に、高耶は真面目に頷いている。どう"よろしく"するのか、きっと分かっていないのだろう。 「私は社員じゃないんですから、こんなに仕事を回さなくてもいいでしょう」 どうしたって文句を言わねば気がすまない。しかし照弘はしれっとして言い返した。 「33を過ぎたというのに無職のおまえに、わざわざ仕事を持ってきてやったんだ。ありがたく思え。もちろん、ちゃんと給料は払うからな」 歳のことまで言われては、反論できるはずも無い。これは早々に就職せねばと直江は心に決めたのだった。
(ちょっと惜しかったかな)
と思いつつ、ベンツのイグニッションキーを回す。 (幸せ者だな、あいつは)
――――本当に。
「しまった。母さんになんて言えばいいんだ」
――――義明の彼女を見てくるよ。 「どうするかな――……」 ひとしきり悩むが、いい案は出てこない。 「まあいいか。自分で上手く説明しろよ」
照弘はあっさりとさじを投げて、義明に全部押し付けることにした。どうせいつかは言わなければならないことだが、今は「友達だった」ということにしておいてやろう。義弘には本当のことを話して、酒の肴にさせてもらうが。
[終]
紅雫 著 [あとがき] 注:このお話では橘兄弟の年齢は、照弘→冴子→義弘→義明という設定になっています。はっきりとした順序が原作には無かったと思ったので勝手に造らせて頂きました。あしからず。
じんじん様の「Garden」の直江お誕生日企画に差し上げました。こんなものを貰って頂いて、本当にありがとうございます(笑)。 |
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