四国の夜は暗くて寒い。曇り空の夜は地上の光が反射して、晴れた夜より明るくなるのが現代の一般的な現象である。
今夜の宴会は兵頭たち、京都へ赴く者の送別会だ。兵頭は外地組京都方面隊長に選ばれたのだった。明日には四国を離れ、京都へ向かう。
そしてもう1人…。
(誰だ…?)
現代人ではない。
兵頭はそのシルエットに見覚えがあった。
(仰木高耶―――)
高耶はまだ兵頭に気づかない。ひたすら何もない空を見つめている。まるでその奥に、なにか大切なものでもあるかのように。
兵頭はそれがなにか知っていた。
高耶は遊撃隊長だった頃から、よく月を見つめていた。夜になると1人テントを抜け出し、天空に輝く月を眺めていた。
それが何なのかは、あの時までまだ分かっていなかった。
あの男を見るまでは。
―――元上杉総大将の直江信綱。
そうだと分かったのは、そんなに遅くはなかった。なにより、仰木高耶の態度を見ていれば一目瞭然だった。
あれが400年上杉景虎の副官であり続けた男。
2人が会話をしている時、兵頭はいつも400年の絆を見せつけられている気がしていた。
その度に嫉妬している自分に気づいたのは、いつのことだったか。
あの男を想って月を見つめていることに。
「夜にその格好では風邪をひきますよ」
月光の届かない空の下で向かい合う。
2人が直接顔を合わすのは、1ヶ月ぶりのことだった。そしてまた当分会うことはなくなる。
高耶はこれから3ヵ月、裂命星を安定させる修法を行うため剣山に篭る。その間は、世話役兼護衛の童子以外と直接会うことはない。精神統一のためだった。
仰木高耶はいまや"今空海"として、赤鯨衆で特別な地位にいる。しかし、古参の隊士達にとっては共に戦った仲間であり、しばしの別れを惜しむため送別会を行うことになったのだ。
しばらく黙って向き合っていたが、高耶はふっと視線を逸らし、海の方を眺めながら無表情に言った。
「主役がこんなところにいていいのか」
(変わらないな)
"今空海"と崇められるようになってから、仰木は変わったと言う隊士がいる。だがもともと戦闘の時以外、この男はほとんど感情を表さなかったような気がする。
(いや、違うか)
1人だけ、仰木の感情を引き出している男がいた。
「あの男のことを考えていたんですか」
「…なんのことだ」
何の反応も返さない高耶に兵頭は失望した様子もなく、同じように海を眺めた。
無言のときが流れる。
光の届かない広大な海はただひたすら暗く、波が揺れる様はまるでどす黒い怨念が蠢いているかのようだった。
先に沈黙を破ったのは高耶だった。
「京都には名のある怨将が集まる。あまり下手にはつつくな」
あくまでも赤鯨衆の標的は織田である。
あの日から空は怨念に覆われ、何も見えなくなった。それでも、その奥にあるあの男によく似た月の光を感じたくて、こうして空を見つめてしまう。
("空泥棒"のくせに…)
その時、兵頭が横顔を見せたまま再び口を開いた。
「成したことを後悔しているのですか」
「裏四国を成したことは、赤鯨衆にとって有利に働きました。あなたの魂核寿命と引き換えにしたことで、嶺次郎は悔やんでいるようですが」
そこまで言ってからいったん口を噤み、何かを考えるように少し俯いた。
「死なないでくださいね、仰木隊長」
高耶が目を見開いた。
「まだ私との勝負はついていません。魂核寿命など関係ない。私と戦うまでは、死なないでください」
そこにあるのは、高耶に白紐束を渡したあの日と同じ瞳だった。
そして…。
「おまえは、変わらないな」
高耶は再び海に向き直ると、今度ははっきりとした口調で言った。
兵頭は黙って高耶を見つめていた。
「…仰木さん、兵頭さんも!こんなとこにおったとですか」
「みんな探してますよ。主役の2人が消えたって」
「…今行く。先に行っちょれ」
さすがの冷静非情な室戸の長も、あの純真無垢な瞳で期待を込めて見つめられると、逆らいがたいらしい。
高耶が何事かと思って見ると、おもむろに上着を脱いで高耶の肩に掛けた。
「別に俺は平気だ。これを脱いだらお前が寒いだろう」
そう冷たく言う。そして再び踵を返すと、一瞬立ち止まった。
しばらく驚いていた高耶は、少し頬を緩めるとその背にそっと呟いた。
「ありがとう…」
いつもこうして上着を掛けてくれたのは、別の男だった。
「直江―――……」
上着の端を握り締め、小さく呟く。
そうして振り仰いでみる空には、あの男の瞳と同じ冴え冴えとした光を放つ月はない。
たったひとりの、俺の――――。
(たとえ届いたとしても)
あの男にはなにもできない。
高耶が自らの魂核寿命より赤鯨衆を選んだことに、兵頭は少なからず優越感を抱いていた。
それは、高耶が直江信綱よりも赤鯨衆を選んだとも言えるからだ。
現在の状態に満足しているわけではない。自分は上杉景虎を力で引き摺り下ろす。
(400年上杉景虎の補佐をしてきた男)
相手にとって不足はない。
(死なせはしない)
兵頭は強く想う。
(死なせたりはしない)
今までにない強さで想う。
兵頭は顔を上げると、強く一歩踏み出した。
[終]
紅雫 著 [あとがき] 思ったより長くなっちまいました。マイブーム中の兵頭です。29巻を読んで「兵頭書きたい!」と思ったのが運のつき(?)。 実は兵頭にもう一度「死なないでください」と言わせたかった(笑)。あと、高耶さんに笑って欲しかった。兵頭の一言で、救われてほっとする高耶さんを書きたかったのかも。 しかし、シリアスに決めようと思ってたのに卯太郎が出てきた途端ほのぼのモードに…。あなどれんな、卯太郎。兵頭もほだされてるし(笑)。 それでは読んでくださってありがとうございました。 |
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