隠された月の下で






夏が間近なこの季節。本当なら、この南国土佐は気温20℃をこす日々が始まっているはずだった。
だがこの四国には一年以上前から夏がない。夏どころか、四季が消えていた。
空には常に厚い雲が覆い被さり、天からの暖かい光を阻んでいる。
まるで、6500万年前の恐竜が死滅した頃のようだ。
その下で暮らす生物は冬のような寒さに凍え、1年以上も来ない春を待ち続けていた。

四国の夜は暗くて寒い。曇り空の夜は地上の光が反射して、晴れた夜より明るくなるのが現代の一般的な現象である。
しかし、この四国にその現象は存在しない。地上に光を発するものがないからだ。
電灯はあれから光ることはない。多少電気が発電されるようになったとはいえ、電灯などに回している余裕はなかった。
だいたい今の四国に、好き好んで夜出歩く一般人はいなかった。
闇の帳が降りると人々は仕事を止め、昔電気のなかった頃のように大人しく眠りにつく。
それ以外になす術はなかった。

そう、死霊達以外は―――。




冷たい風が首元をくすぐる。
兵頭は手に持っていた上着を羽織った。酒で火照ったため脱いでいたが、さすがに夜の戸外は冷える。
どんちゃん騒ぎの続く建物を離れ、1人海の見える高台へと歩き出した。

今夜の宴会は兵頭たち、京都へ赴く者の送別会だ。兵頭は外地組京都方面隊長に選ばれたのだった。明日には四国を離れ、京都へ向かう。
この地に残る者達とも、当分会うことはないだろう。

そしてもう1人…。



兵頭は高台まで後一歩というところで足を止めた。先客がいるのが見えたからだ。

(誰だ…?)

現代人ではない。
かといって、遍路をする死霊でも見張りの赤鯨衆隊士でもないようだ。
長身のしなやかな背を少し逸らして、目の前に広がる海ではなく、何も映さない空を見つめている。

兵頭はそのシルエットに見覚えがあった。

(仰木高耶―――)

高耶はまだ兵頭に気づかない。ひたすら何もない空を見つめている。まるでその奥に、なにか大切なものでもあるかのように。

兵頭はそれがなにか知っていた。
(月を見ているのか)

高耶は遊撃隊長だった頃から、よく月を見つめていた。夜になると1人テントを抜け出し、天空に輝く月を眺めていた。
まるで愛しい者を見るように、狂おしく切ない瞳で。
夜が明けるまで、その光を見つめていることもあった。兵頭はそんな高耶の姿を、何度か見かけていた。

それが何なのかは、あの時までまだ分かっていなかった。

あの男を見るまでは。


橘義明と名乗ったあの男。一目見た時から、ただ者でないことは分かっていた。

―――元上杉総大将の直江信綱。

そうだと分かったのは、そんなに遅くはなかった。なにより、仰木高耶の態度を見ていれば一目瞭然だった。

あれが400年上杉景虎の副官であり続けた男。
今の自分と同じポジションを、守り続けてきた男。

2人が会話をしている時、兵頭はいつも400年の絆を見せつけられている気がしていた。
本人にその気がなくても、長年培ったコンビネーションは隠せるものではない。

その度に嫉妬している自分に気づいたのは、いつのことだったか。
そして気づく。仰木高耶の月を見つめる瞳が、あの男を見つめている時の瞳と同じであることに。

あの男を想って月を見つめていることに。



足音が近づいてくる。
高耶はその気配に、ゆっくりと振り向いた。

「夜にその格好では風邪をひきますよ」
「兵頭…」

月光の届かない空の下で向かい合う。


久しぶりに見る高耶は、前に会った時よりも痩せたように思える。会うたびに細くなっていくようだ。

2人が直接顔を合わすのは、1ヶ月ぶりのことだった。そしてまた当分会うことはなくなる。
今日の送別会は、高耶のものも兼ねていた。

高耶はこれから3ヵ月、裂命星を安定させる修法を行うため剣山に篭る。その間は、世話役兼護衛の童子以外と直接会うことはない。精神統一のためだった。

仰木高耶はいまや"今空海"として、赤鯨衆で特別な地位にいる。しかし、古参の隊士達にとっては共に戦った仲間であり、しばしの別れを惜しむため送別会を行うことになったのだ。

しばらく黙って向き合っていたが、高耶はふっと視線を逸らし、海の方を眺めながら無表情に言った。

「主役がこんなところにいていいのか」
「それはあなたもでしょう」
兵頭も無表情に返す。
「俺のはほんの数ヶ月だ。送別会をするほどのことじゃない」
そっけなく答える。

(変わらないな)
と兵頭は思う。

"今空海"と崇められるようになってから、仰木は変わったと言う隊士がいる。だがもともと戦闘の時以外、この男はほとんど感情を表さなかったような気がする。

(いや、違うか)

1人だけ、仰木の感情を引き出している男がいた。
誰にも見せたことのない表情を、あの男の前では見せていた。

「あの男のことを考えていたんですか」
兵頭の不躾な質問に、高耶の肩がぴくりと揺れる。

「…なんのことだ」
「橘は今足摺の調査に向かっているそうですね」
「……」

何の反応も返さない高耶に兵頭は失望した様子もなく、同じように海を眺めた。

無言のときが流れる。
崖にぶつかる波涛の音だけが、あたりに響いていた。

光の届かない広大な海はただひたすら暗く、波が揺れる様はまるでどす黒い怨念が蠢いているかのようだった。
その海を見つめ、無言で冷たい風を感じる。

先に沈黙を破ったのは高耶だった。

「京都には名のある怨将が集まる。あまり下手にはつつくな」
「分かっています。こちらに手出しをしない限りは何もしません」

あくまでも赤鯨衆の標的は織田である。
「だが、売られた喧嘩は必ず買いますよ」
兵頭は無表情のまま、瞳だけを熱く滾らせて言う。
高耶は何も言わず、ゆっくりと空を振り仰いだ。

あの日から空は怨念に覆われ、何も見えなくなった。それでも、その奥にあるあの男によく似た月の光を感じたくて、こうして空を見つめてしまう。

("空泥棒"のくせに…)
自嘲の笑みが浮かびそうになる。

その時、兵頭が横顔を見せたまま再び口を開いた。
「空を見たいんですか」
高耶は驚いて振り向く。

「成したことを後悔しているのですか」
「後悔なんてしていない」
即座に返す。そのまま睨みつけると、
「ならばいいのです」
と言ってこちらを向いた。

「裏四国を成したことは、赤鯨衆にとって有利に働きました。あなたの魂核寿命と引き換えにしたことで、嶺次郎は悔やんでいるようですが」

そこまで言ってからいったん口を噤み、何かを考えるように少し俯いた。
再び顔を上げ、まっすぐに高耶を見つめる。

「死なないでくださいね、仰木隊長」

高耶が目を見開いた。

「まだ私との勝負はついていません。魂核寿命など関係ない。私と戦うまでは、死なないでください」

そこにあるのは、高耶に白紐束を渡したあの日と同じ瞳だった。
高耶はしばらく呆然と固まっていた。

そして…。


兵頭は目を見張った。高耶が微笑んだのだ。あの1年前からまるで表情を出さなくなった男が、なにか胸のつかえが取れたかのように、嬉しそうに微笑んでいる。

「おまえは、変わらないな」
そう呟いて、ふと俯く。
「なんだか安心する…」

高耶は再び海に向き直ると、今度ははっきりとした口調で言った。
「俺は死なない。まだやるべきことがある。全てが終わるまでは、たとえ魂の寿命がきたって死にはしない」

兵頭は黙って高耶を見つめていた。
再び静寂があたりを支配する。
だが、それは先ほどの重苦しいものとは違っていた。




遠くから、誰かが近づいてくる気配がした。
だが、2人とも動かない。そのまま気配が辿り着くまで、無言で海を見つめていた。

「…仰木さん、兵頭さんも!こんなとこにおったとですか」
霊体姿の卯太郎である。
酒は飲めないが、霊体の隊士も多く宴会に参加していた。室戸の長と今空海を一緒に見る機会は、もうあまりなくなっていたからだ。

「みんな探してますよ。主役の2人が消えたって」
高耶と兵頭は、どちらからともなく顔を見合わせた。
先に動いたのは高耶だ。
「俺はもう少ししたら行く」
だから先に戻れ、と再び海の方を向き、そっけなく言う。
それを気にした様子もなく、卯太郎は分かりましたと元気よく返事をした。そして兵頭の方を見る。

「…今行く。先に行っちょれ」
(先を取られたか…)
兵頭が仕方なくそう言うと、卯太郎はぴょこんと頭を下げて、走り去っていった。早う来てくださいね、と叫びながら。

さすがの冷静非情な室戸の長も、あの純真無垢な瞳で期待を込めて見つめられると、逆らいがたいらしい。
高耶はその様子に、微かに笑みを漏らしていた。
そんな高耶に気づかずに、兵頭はいったん去りかけた。
だが、再び高耶に歩み寄ってくる。

高耶が何事かと思って見ると、おもむろに上着を脱いで高耶の肩に掛けた。
高耶もTシャツの上に、パーカーを羽織っているだけだったが、上着を脱ぐと、兵頭はTシャツ一枚になってしまう。
高耶は驚いて返そうとした。

「別に俺は平気だ。これを脱いだらお前が寒いだろう」
だが、兵頭は受け取らない。
「宴会場は暑いですから。まだここにいる気なら着てください。見てて寒々しいんです。それに風邪でもひかれたらこちらが困りますから」

そう冷たく言う。そして再び踵を返すと、一瞬立ち止まった。
「そんなに月が見たければ、海に出てみるといい。結界の外の海上からならいつでも見れますよ」
と言い残し、元来た道をひき返していった。

しばらく驚いていた高耶は、少し頬を緩めるとその背にそっと呟いた。

「ありがとう…」




残された高耶は握っている上着を見て一つ溜息をつくと、大人しく羽織った。そこから微かな温もりが伝わってくる。

いつもこうして上着を掛けてくれたのは、別の男だった。
そこにある温もりを感じることで、いつも安らぎを覚えていた。
今は遠い、けれど同じ空の下にいる自分の半身。

「直江―――……」

上着の端を握り締め、小さく呟く。

そうして振り仰いでみる空には、あの男の瞳と同じ冴え冴えとした光を放つ月はない。
そこに、直江はいない。
けれど求めるように空を見つめる。

たったひとりの、俺の――――。



兵頭には分かっていた。
今もまた、仰木高耶は空を見上げているだろうことを。
だが、今この地から月は見えない。
あの男の光は、仰木高耶には届かない。

(たとえ届いたとしても)

あの男にはなにもできない。

高耶が自らの魂核寿命より赤鯨衆を選んだことに、兵頭は少なからず優越感を抱いていた。

それは、高耶が直江信綱よりも赤鯨衆を選んだとも言えるからだ。
この優越感が、直江に対する嫉妬から来ていることは分かっていた。
ただそれが高耶の信頼を得る立場に対してなのか、唯一高耶に影響を与えられる人間であることに対するものなのかは、兵頭自身にもまだ分かっていなかった。

現在の状態に満足しているわけではない。自分は上杉景虎を力で引き摺り下ろす。
その決意は変わっていない。
だがその前にあの男が立ち塞がるのは目に見えていた。
だから仰木高耶の前に、直江信綱を倒す。

(400年上杉景虎の補佐をしてきた男)

相手にとって不足はない。
むろん高耶の魂核寿命のことも忘れたわけではない。そのために赤鯨衆隊士の幾人かが専属で情報を集めている。

(死なせはしない)

兵頭は強く想う。
まだ、死なせはしない。仰木高耶はまだ自分と戦っていない。いや、戦い終わっても。

(死なせたりはしない)

今までにない強さで想う。
この気持ちがなんなのか。今考えることはそんなことじゃない。今はただ作戦を成功させる。織田を倒す。そして己の力を見せつけるのだ。

兵頭は顔を上げると、強く一歩踏み出した。


あの男に、勝つために―――。





[終]

紅雫 著
(2000.01.22)


[あとがき]
思ったより長くなっちまいました。マイブーム中の兵頭です。29巻を読んで「兵頭書きたい!」と思ったのが運のつき(?)。
 実は兵頭にもう一度「死なないでください」と言わせたかった(笑)。あと、高耶さんに笑って欲しかった。兵頭の一言で、救われてほっとする高耶さんを書きたかったのかも。
 しかし、シリアスに決めようと思ってたのに卯太郎が出てきた途端ほのぼのモードに…。あなどれんな、卯太郎。兵頭もほだされてるし(笑)。
それでは読んでくださってありがとうございました。


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