ささやかな願いごと






 5月3日は橘義明こと直江信綱の誕生日である。
 リビングへとやってきた直江は一大決心をして、同居している(←同棲じゃないところが哀しい)ご主人様(←恋人とすら呼べない)に、恐る恐る切り出した。

「ねぇ、高耶さん」
「なんだ?直江」

 ソファの上で雑誌から片時も目を離さず、けれどきちんと返事をしてくれたことに安堵して、直江はずずいと膝を進めた。もちろん直江がいるのは床である。ご主人様と同じところに座るなんて、恐れ多い真似はできない。

「今日は5月3日ですね」
「ああ、そうだっけ」
「何の日かご存知ですか?」
「憲法記念日だろ」

 あっさり言い切られ、直江はがっくりと肩を落とす。相変わらず高耶の視線は雑誌に向いていて、こちらをちらりとも見てくれない。
 それでも直江はめげそうになる心を奮い立たせて、もう一度高耶にカマをかけた。

「そ、そうですね。でも、もうひとつありますよね」
「ん?………ああ、ゴミの日か」

 直江は完全に沈没した。
 毎年のこととはいえ、高耶は欠片も自分の誕生日を祝ってくれる気はないらしい。
 もちろんそんなことで高耶を嫌いになったりなどしないが、ありとあらゆる恋人のアニバーサリーをまったく無視する彼の態度を見ていると、少しばかりその愛を疑いたくなってくる。
 いじけかけた直江の思考を現実に引き戻したのは、高耶の笑いを含んだ声だった。

「冗談だよ。今日はおまえの誕生日だろ?ちゃんと憶えてるよ」

がばぁっと身を起こした直江の目に、苦笑してこちらを見つめる高耶が映った。

「高耶さんっ!」

 感激のあまり涙目になった直江に、高耶は優しく尋ねる。

「で?なにが欲しいんだ?」

 直江は怒られやしないかとびくびくしつつ、ずっと欲しかったものを答えた。

「あなたが欲しいんです」

 飛んでくる鉄拳を覚悟して、目をきつく瞑る。そんなに怖ければ言わなきゃよかったのだが、どうしても言いたかったのだ。

(だって私たちは一応恋人のはずだ!)

 いつまで経っても振り下ろされない拳に、直江がそうっと目を開こうとしたとき。ふわり、と柔らかな感触が額に降りてきた。
 驚いて目を見開くと、間近に高耶の顔があった。直江の額に触れているのは、高耶の唇。
 呆然と見つめる直江に、高耶は微笑んだ。

「これでいいか?」

 ようやく直江は、高耶にキス(ただし額)されたのだと理解した。その瞬間、目の前がバラ色に染まる。

(はじめて…はじめて高耶さんがキスしてくれた…!)

蕩けかけた思考で、直江はかろうじて呟いた。

「もう死んでもいい…!」
「そうか、良かったな」

 高耶はそう言うと、雑誌を持って自分の部屋へ戻ってしまう。だが直江はそれにすら気づかず、感涙にむせび泣いていた。



 キスひとつでごまかされたことに直江が気づくのは、当分先のようである――――。





[終]

紅雫 著
(2001.05.02)


[あとがき]
この直江と高耶さんは、いまだ肉体関係(←おい)に至っておりません。せいぜい一ヶ月に一度、キスできればいい方っていう状態です。
本当にささやかな幸せだなぁ、直江(笑)。
でも触れることすら叶わなかった頃に比べれば、格段に良くなってますよね。うん、十分幸せだ。


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