The night story






 東京近郊ながら緑の多いこの街は、夜の闇が深く感じられる。
 そんな中、大きな窓から晧々と明かりが溢れ、辺りを照らしている建物があった。由緒ある洋館のような外観のそれは、つい先日ホテルとしてオープンしたばかりであった。
 その2階にある窓の一つがカタンと小さな音を立てて開き、長身の影がテラスに滑り出てきた。ガラス一枚隔てた部屋の中は、ザワザワと人の熱気で満ちている。
 出た時と同じく静かに窓を閉めた直江は、夜の冷たい空気に安堵するようにため息をついた。

 直江信綱、29歳。正確に言うと、本日29歳になったばかりだ。
 中で行われているパーティーは、直江の誕生日を祝うものである。オープンしたばかりのホテルの会場を借り切った豪華なパーティーを催すことができるのは、このホテルのオーナーが直江の長兄だからだ。といっても本人が希望したわけではなく、末の弟を過保護にしている(というよりオモチャ扱いしている)長兄と、それに便乗した悪友たちが勝手に企画したのだ。
 直江自身パーティーは嫌いではないし、自分を祝ってくれる気持ちには素直に感謝している。しかし、結局のところ自分をダシに騒ぎたいだけの友人たちのテンションについてゆけず、また異様にたくさんいる「友人の友人」という近いのか遠いのか良く分からない人間たちと挨拶を交わすことにも疲れたため、こうして外に避難してしまった。

(このまま部屋に戻ってしまおうか)

 ぼんやりと夜景を眺めつつグラスを口に運んだ直江の耳に、そのとき小さな音が届いた。同時に空気が揺らいだ気がしてふと振り向くと、パーティー会場とテラスで繋がった隣の部屋から、ひとりの青年が出てきたところだった。
 服装からすると、パーティーのために臨時で雇ったボーイのようだ。休憩時間なのだろうか、じっと見つめている直江に気づかない様子で、タバコを取り出して火をつける。その仕草は手馴れている感じなのに、手を宙に振り上げて伸びをする姿がどことなく子供っぽくて、直江は小さく微笑んだ。
 その気配が届いたのか、青年がはっとこちらを振り向いた。黒い鏡のような瞳が直江を映し、悪戯が見つかった子供のような表情になるのを見て、直江は今度こそはっきりと微笑みを浮かべた。

「こんばんは」
「……こんばんは」
「休憩中ですか?今は構いませんが、今度からはなるべくお客様の目につかないところで吸ったほうがいいですよ。嫌がられる方もいらっしゃいますから」
「すいません」

 青年は素直に謝って、持っていた携帯灰皿にタバコを押しつけた。そのまましばらく2人の間に沈黙が落ちた。
 タバコを潰してしまったせいで、手持ち無沙汰に灰皿をもてあそぶ青年を見つめながら、

(印象的な人だな)

と直江は思った。すらっと伸びた手足や、一見華奢に見えるほどの締まった身体つきや、いまどき珍しい艶やかな黒髪や、なにより先ほど自分を真正面から見つめた黒曜石のような瞳は、一度見ただけで忘れられなくなりそうだ。
 すると、視線を下に向けていた青年は、再び真っ直ぐ直江を見返した。

「………あの、なにか?」

 あまりにじっと見つめていたからか、居心地が悪そうに尋ねてくる。

「ああ、すみません。……よろしかったら、これを飲みますか?まだ口をつけていないので」

 直江は手に持っていたシャンパングラスを掲げて見せた。

「え?でも……」
「せっかくの休憩時間を邪魔してしまったようですから。どうぞ、遠慮なく」

 友人たちに「絶対セールス向き」とお墨付きを貰った笑顔でグラスを差し出す。確かに今までこの笑顔で何かを断られたことは一度もないから、友人の評価は正しいのかもしれない。目の前の青年も、戸惑いつつ礼を言って受け取った。
 グラスを受け取った青年は、ふと何かに気づいたように直江の顔を凝視した。今度は逆にじっと見つめられて、直江は怪訝そうに見つめ返し、束の間2人は見つめあった。
 突然、青年が口を大きく「あ」の字に開けた。

「あ」
「え?」
「あー!」
「なんですか?」

 グラスを持っていないほうの手で指差され、直江は目を見開いた。

「あんた、今日の主役じゃんか!どっかで見た顔だと思った!」
「………」

 ボーイとはいえ、パーティーに出席しておきながら、主役をつかまえて「どこかで見た顔」はないんじゃないかと直江は思った。直江の微妙な表情に、青年ははっとなった。

「あ、わり……じゃなくて、すいません。オレ、口悪いから」
「ああ、気にしなくていいですよ」
「でも……」
「少し、お話しませんか?」

 いきなり話を変えた直江に、青年は訝しげな顔をした。

「はあ、いいですけど」
「長く話すのに、畏まったしゃべり方は疲れるでしょう?」
「え?」
「だからあなたが普段話している言葉づかいでいいですよ。私のこれも、敬語ではなくて地ですから」

 穏やかにそう言って笑う男に、青年もようやく苦笑を返した。

「じゃ、遠慮なく」
「ええ、そうしてください」
「で、何を話すわけ?」
「あなたのお名前を伺ってもいいですか?」
「オレは仰木高耶。今日だけ臨時のバイトでボーイしてる」
「私は直江信綱です。一応今日のパーティーの主役ですね。よろしく、高耶さん」

(不思議な男だな)

と高耶は思った。当たり前のように、ただのバイトの自分に敬語で話し、さん付けで呼んだりする。他の奴なら「馴れ馴れしい」と思いそうなものだが、目の前の男は常に穏やかに微笑んでいるせいか、嫌な感じがしない。

「主役がこんなとこいていいのかよ。戻った方がいいんじゃねぇの?」
「大丈夫ですよ。私がいなくても十分盛り上がっていますから」
「ふーん?」
「それに、知らない人間が多くて少し気疲れしてしまいましたし」
「あんたの誕生パーティーなんだろ?なんで知らない人間が多いんだよ」
「パーティーというだけで出席したがる人は多いんですよ。このホテルはオープンしたばかりですから、客寄せも兼ねてるんでしょう」
「自分のパーティーを利用されてるってわけ?腹立たないのか?」
「パーティーなんて多かれ少なかれ利用されるためのものですから、別段気になりません」
「そんなもんか。オレにはよくわかんねぇな」

 高耶はいまいち納得できないという顔で黙り込んだ。

「高耶さんは、どうやってこのパーティーを知ったんですか?」

 今度は直江が尋ねる。一応身内だけの内輪なパーティーという名目なので、わざわざ外部からバイトを雇い入れる必要はないはずなのだが。

「オレは千秋に『いいバイトがあるからやってみないか』って誘われたんだよ」
「千秋?千秋修平のお知り合いだったんですか」

 思ってもみない知人の名前が出て、直江は驚いた。

「あ、千秋は知ってんだ」
「ええ、このパーティーを企画した悪友のひとりですよ。親が知り合いでして、言わば幼馴染みってところです。あなたは?どうやって千秋と知り合ったんですか?」

 見た感じ、千秋と同年代とは思えない。もう少し年下のはずだ。千秋は交友関係が広いから、どんな人間と知り合いでも不思議ではないのだが、なんとなく高耶は「ただの知り合い」とは違うような気がした。

「千秋ってカメラやってるじゃん?俺の友達もカメラマン目指しててさ、千秋の事務所で勉強を兼ねてバイトしてるんだ。そいつの縁で会って、なんとなく仲良くなった」
「ああ、そういえば確かに。高校生のバイトがいるという話を聞いたことがありますね。……って、高耶さんまだ高校生なんですか!?」

 慌てて高耶に手渡したシャンパングラスを見るが、中味は半分以上減っていた。当然のように呑んでいた高耶は、ぺろっと舌を出した。

「やべ」
「駄目ですよ、未成年がお酒を飲んでは。それにさっきタバコも吸ってましたね」
「酒はおまえが渡したんだろ。タバコだって皆吸ってるし」
「高校生だとは思わなかったんです。高耶さんはずいぶん大人っぽいですね」
「そうか?そんなこと初めて言われた。千秋とかにはしょっちゅう『ガキ』って言われるけどな」

 高耶は照れたように小さく笑った。その笑顔に惹かれるものを感じて、直江は戸惑った。その戸惑いを振り払うかのように、小さな電子音が響いた。

「あ、休憩時間終わりだ」
「もう、ですか?」
「もともとトイレ行く時間分くらいしかないんだよ。あと、タバコ吸う時間かな」

 名残惜しそうに言う直江に微笑んで、高耶は飲み干したグラスを渡した。

「サンキュ、うまかった。自分が運んでるのに味見もできないんだもんな」
「いえ……」
「じゃあ、おまえもそろそろ戻れよ」

 躊躇いなく背中を向けて去っていこうとする高耶を見て、直江は咄嗟に口を開いた。

「待ってください」
「え?」

 振り向いた高耶の見開かれた瞳を見て、直江は胸の中の戸惑いを確信に変えた。そして本心を伝える。

「あなたともう少し話がしたい」
「オレはバイトが……」
「先ほどまでの分はきちんと支払われるよう掛け合っておきます。もし私に付き合ってくださるなら、プラスして今日支払われる倍の金額を差し上げます。私のおしゃべりに付き合うバイトだと思ってくださって結構です」
「………それ、マジ?」

 提示された金額の大きさに、高耶の心が揺れた。対する直江の目もはいたって真剣だ。

「本気です。もうしばらく、私に付き合ってくれませんか?」
「でもおまえだって、戻らなきゃならないんじゃないか?」
「あなたと会わなければ、そのまま部屋に戻ろうと思っていたところですから、構いません」

 どうやら男は本気らしい。本気で高耶と話がしたいらしい。

(オレなんかのどこが面白いんだ?)

 疑問が浮かぶが、同時に拒否する気がないことも分かっていた。話をするだけで金が貰える、ということにも惹かれるが、それ以上に高耶も直江ともう少し話していたかったのだ。だから、すんなり頷いた。

「いいよ」

 このとき、高耶は初めて直江の全開の笑顔を見た。










「すっげー、スイートルームに泊まってんのかよ」

 あのまま外にいては目立つし風邪を引きそうだということで、2人は直江が宿泊している部屋に入った。窓からは、先ほどのテラスよりほんの少し遠くに街の明かりが見える。ホテル自体はそれほど高い建物ではないが立地が丘の上なので、最上階のスイートからは、百万ドルまでいかないが充分満足できるだけの夜景が望めた。

「兄の経営するホテルなので、融通が利くんですよ」

 部屋に入るなり、窓際に直行した高耶を見て、直江は顔をほころばせた。高耶はゆっくりと歩み寄った直江をちらっと見て、再び夜景に目を戻した。

「スイートなんて初めて入った」
「私もめったに泊まったことはありません。今日は誕生日だから特別だそうですよ」
「実は結構甘やかされてる?」
「末っ子なもので」

 高耶が上目遣いでからかうように伺ってくるので、直江は苦笑を返した。

「なにか飲みますか?」
「ワインとか飲んでみたいな」
「……未成年でしょう」
「いまさらだろ」
「…………」

 確かに最初間違って酒を飲ませたのは自分だから、直江はそれ以上反論できなかった。
 夜景がよく見える窓際のソファセットにワインとグラスを運んで、2人はくつろいで座った。

「なんか夢見たいだな。こんなとこでワインなんか飲んでるなんて」

 どこか遠くを見つめるような表情で夜景を眺めながら、高耶はふと呟いた。

「夢、ですか?」
「うん。オレのうち貧乏だからさ。毎日必死でバイトしてて、こういうところに来る贅沢なんて考えたこともなかったから」

 小さな微笑は透明で、瞳には真っ直ぐ前を見据えて歩く人間が持つ静かな光が灯っていた。自分の境遇を嘆くでもなく、自嘲するでもなく、ただ今日のことを「とびきりのボーナス」と言って高耶は笑った。

「今日のバイトもさ、本当は飛び入りなんだ。一晩だけの臨時バイトでギャラもいいからって千秋が頼んでくれて。なのに、こんなふうにサボったりして、やっぱマズかったかな?」
「構いませんよ。お給料を払うのは私ですから」
「そうなのか?」

 まさか今日の主役みずからが給料を出すとは思わなかった。直江は苦笑して頷き、

「多分長兄が出してくれると言うでしょうが、勝手にパーティーの規模を大きくしたのは千秋達ですからね。あいつらの後始末をするのは、昔から私の役目なんです」
「……そいつはお気の毒」

 心底同情するような顔と声に、直江は「そうでしょう?」と笑った。



 それから2人は、昔からの友人同士のように、ワインを酌み交わしながら穏やかに語り合った。ふいに訪れる沈黙すら気まずく感じることもなく、静かに夜景を眺めながら過ごす時間が心地良くて、気がつけば750mlのワインは空になっていた。未成年だからと気遣って、高耶のグラスにはあまり注がなかったはずなのだが、ゆったりとソファにもたれて窓の外を見つめる瞳は、薄暗い照明でもはっきりと分かるほど潤んでいた。
 こうしてまじまじと見つめると、やはり高耶は綺麗だと思った。中世的というわけではない。整った顔とすらりとした身体に、少年と青年の狭間のどこかアンバランスな色気が滲んでいた。
 視線に気づいた高耶が、ゆっくりとこちらを見た。

「……なに?」
「綺麗だな、と思って」
「ああ、そうだな」

 どうやら高耶は夜景と勘違いしたらしい。グラスを口に運びながら呟く。直江は苦笑を浮かべて頭を振った。

「いえ、あなたが」
「え……?」

 目を見開いて直江を凝視した高耶は、思いきり呆れた顔になった。

「おまえ、武藤とおんなじようなこと言うんだな」
「武藤?」
「さっき話した、カメラやってる友達。千秋の弟子だよ。なんか知らないけど、人の顔見るたびに『撮らせろ』ってうるせーんだ。最近じゃ千秋まで『モデルにならないか』とか言い出すし」

 なるほど確かに、高耶をモデルにしたいと思う気持ちは良く分かる。素人の自分がそうなのだから、きっとプロの千秋にはそれ以上の才能(もの)が見えているのだろう。

「モデル、やらないんですか?」
「やだよ、恥ずかしいじゃん。まあ単発バイトってことで、ギャラがいいならやってみてもいいけどさ。千秋ケチだから、昼飯代しか出さないって言うし」

 拗ねたように高耶は唇を尖らせた。

「ギャラが良ければやるんですか?」
「言っただろ、うち貧乏なんだって。親父はアル中で入院してるし、お袋はとっくに離婚していないし。………妹がいるんだけどさ。頭いいから大学に行かせてやりたいんだ。これ以上苦労させたくない。だから金が必要なんだ。もっと、もっとたくさん……。遊びでモデルなんてやってる暇ないんだ」

 家族の話をするとき、高耶は優しい、けれどどこか苦しく悲しげな瞳になった。辛く痛々しい想い出と、妹への愛しい想いを直江は感じた。
 そして気づく。高耶をこんなに綺麗だと感じるのは、優しすぎて傷ついた魂がブリリアンカットのダイアモンドのように輝いているからだ。辛いことも悲しいことも、すべて包み込む優しい心があるから、こんなにも彼は人を惹きつけるのだ。

「なら、本気でやればいいんですよ」

 当たり前のように言い切ると、直江は立ち上がってゆっくり高耶に歩み寄った。

「………なに、言ってんだよ」

 近づいてくる直江を見つめながら、高耶は呆然と呟いた。

「あなたならきっと、一流のモデルになれるから。大丈夫。千秋の目は確かですよ。きっとそのお友達もあなたに可能性を感じたんでしょう。そして私も」
「おまえも……?」

 隣に座り、覗き込むように見つめてくる男に視線を絡め取られて、高耶はそのまま硬直したように動けなくなった。
 微動だにしない高耶の手をそっと取って、直江は優しく微笑んだ。

「これでも見る目はあると言われてるんです。今まで成功すると思った人で、失敗した人はいません」
「……………」
「初めて見たときから、あなたは特別だと感じました。とてもただのボーイには見えませんでしたよ。ただそこに立っているだけで、空気の色を変えるような、雰囲気のある人だと思いました」
「……………」
「あなたなら、きっと素晴らしいモデルになれる。私が保証します。だから、やってみませんか?」

 鳶色の瞳が、穏やかに語りかけてくる。こんな風に間近で真摯に見つめられると、本当に男の言葉どおり、大丈夫な気がしてくるから不思議だ。なんの根拠もないのに、この男の言葉は信じられるような気がする。絶対に嘘は言わないと、無意識のうちに確信しているかのように。

「………おまえ、変だ。なんでオレなんかに、そんなこと……」

 男を近くに感じて、その視線に視線を絡め取られて、高耶は一気に酔いが回った気がした。
 頬が熱い。頭がくらくらする。自分の身体が自分のものではないようで、そのまま宙に浮きそうな感覚を、直江に繋がれている手が引き止めていた。直江の手はひんやりと冷たくて、どこもかしこも熱くなった自分を癒してくれた。鳶色の瞳はこんなにも自分の熱を煽るのに、不思議だと思った。

「おかしいですか?」
「変だ……」

(違う、変なのはオレだ)

 高耶は熱に浮かされたように頼りなく直江を見上げた。直江は答えるように握った手に力をこめた。

「あなたが好きなんです」

 告白は突然のようで、けれど直江にとっては必然だった。高耶ともう少し話したいと思ったとき、もうこの気持ちは確定していた。

「会ったばかりで、よく知りもしないのにと思うかもしれないけれど。もっと話をして、もっとあなたのことを知って、あなたの傍にいたいと思ったんです。――――あなたが、好きなんです」

 直江の言葉は、すとんと高耶の胸に落ちた。真摯に見つめる男の熱と、自分の中で荒れ狂っている熱の理由の全てがそこにあると思った。
 言葉も発せずに自分を凝視する高耶の漆黒の瞳に、自分の姿がくっきりと映っている。それを見つめながら、吐息を掠めるようにして唇を重ねた。1秒にも満たないキスで、高耶の柔らかな唇の感触を知る。一度離して、指でふっくらとした唇をなぞり、今度は深く重ねた。

「ん……」

 高耶は拒絶しなかった。舌が入り込んできたとき、一瞬震えて直江の手を握り締めたが、小さく声を漏らしながらも、最後まで直江を拒まなかった。
 ゆっくりと顔を離して、潤んだ漆黒の瞳に怒りも悲しみも拒否反応もないことを確かめ、直江は囁いた。

「バイトをしませんか、高耶さん」
「……バイト?」

 高耶が不思議そうに鸚鵡返しする。

「ギャラは、私の全財産で。あなたが必要なだけ、あなたが望むだけ、私のものは全てあなたにあげるから」

 だから、と微笑んだ。

「私の恋人になってください」



 首に回された腕と、そっと唇に触れた柔らかな感触が、肯定の返事だった。










 翌朝。
 どうやらホテルに泊まったらしい千秋と、直江はビュッフェでばったり鉢合わせした。

「おまえ昨日は主役のくせにさっさと消えやがって。プレゼントを用意してたお姉様がたが嘆いてたぞ。いったい誰としけこんでたんだ?」

 にやにやと人の悪い笑顔を浮かべる千秋に、だが直江は上機嫌で答えた。

「プレゼントならもう貰った」
「誰に?」
「おまえにだ、千秋」
「………全然記憶にございませんが。いったいなんのことだよ?」
「おまえが連れてきてくれたんだろう?感謝している。最高のバースデープレゼントだった」
「はあ?」

 晴れ晴れと笑う直江に、千秋は完全に理解不能だと両手を挙げた。

「なんだかよく分からんが、とにかく幸せそうじゃねぇの」
「ああ。これ以上ないくらいに」

 本当に幸せそうに笑って、男は「じゃあ」と背を向ける。

「そいつはよかったな」

 広い背中に向けて祝辞を送り、千秋もまた反対方向に身体を返した。そのあと、ふと気づく。

(そういや『誕生日おめでとう』も言ってなかったっけ)

 振り返ると、ちょうどエレベーターに乗り込んだ直江と目が合った。これ幸いとばかりに、大きく手を振り上げて千秋は叫んだ。

「誕生日おめでとーさん、直江」

 男の笑顔が印象的な、5月4日の朝だった。





[終]

紅雫 著
(2002.05.19)


[あとがき]
めちゃくちゃ遅ればせながらの直江BD小説です。いったい何日かかって書いたんだって感じです(爆)。しかもその割にはヤマも落ちもどこだかわかんないし。
テーマは「直江をカッコよく」でした。紅雫にしてはとても珍しいお題です(笑)。いかに大人で優しく良い男を書けるか努力した、自分自身への挑戦的な作品ともいえます。
……しかしやっぱり自分の作風はギャグだと痛感しましたよ。どうしてもツッコミたくて馬鹿な台詞をいれたくてうずうずしました(笑)。
とりあえず、直江お誕生日おめでとうってことで。
しんえ、これで良いかな?


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