十万回目の夜






 冷たい風が吹き荒れる。春の気配はまだ遠く、空は重い雲にふさがれ、地上は雪に覆われていた。日本海の波は、強い風にあおられて強く海岸に打ちつけられている。
 男はひとり、砂浜にいた。
下級藩士なのか、粗末な身なりながらも腰には長物が差してある。だがその風貌は、一介の藩士には見えない。数々の戦をくぐり抜けてきた歴戦の武者のように、厳しく引き締まっていた。
男は何かを待っているのか、微動だにせず海を見つめていた。やがて身体の芯から冷え切り、指先の感覚がなくなった頃、背後で砂を踏む音が聞こえた。
 男は振り返り、相手を確かめると、ゆっくりと一礼した。

「――――待たせたな、直江」

 凛とした声。そしていつの時代も変わらず、強い光を宿した瞳。
 男のたったひとりの主君が、そこにいた。

「景虎様」

 呟いた声は、打ち寄せる波の音に消えた。









「このような夜更けにお呼び出しして、申し訳ございませぬ」

ひとまず風を凌ぐため、二人は近くの漁師小屋に落ち着いていた。火をおこし、冷え切った身体を暖める。小さく火がはぜる様を見ながら、景虎はゆるく首を振った。

「いや、この時間でなければ宿から抜け出せなかったから、ちょうどいい」

 世は幕末、徳川の天下は乱れ、外国の脅威に怯えるなか、景虎は幕臣のひとりである大久保一翁の部下に換生していた。本来ならば調伏活動のため全国を走り回らなければならない夜叉衆にとって、地位や家柄は足かせとなりうる。景虎も元はそれほど高い碌の家ではなかったが、その有能さゆえに大久保の気に入りとなり、幕府中枢近くで働いていた。
 今回は大久保に北陸方面へ向かう用事を言いつけられ、それに乗じて久々に直江信綱と連絡をとったのである。直江はちょうど調伏のため、越後に来ていた。二人は直江津で落ち合うことにしたのだった。
景虎は腰にぶら下げていた徳利を外して直江に差し出すと、道中こっそり買ったのだと笑った。

「それで、他の者はどうしているのだ」
「色部殿とは先月お会いしました。長秀は相変わらず浪人でぶらぶらしています。ただ、晴家が……」
「何かあったのか」
「どうやら攘夷運動に傾倒しているようで」

 景虎のぐいのみに酒を注ぎながら、困ったように眉根を寄せる直江に、景虎も盛大なため息をついた。

「まったく、困ったものだな」
「死人が歴史に関わるようなことをしてはならぬと、何度かたしなめたのですが、聞く耳もたないのです」
「女性だというのに、逞しいことだ」
「笑い事ではございませぬ」

 苦笑する景虎に、直江はさらに眉間を寄せた。だが景虎は小さく笑って、酒をあおった。

「だが我らの務めを疎かにしているわけではあるまい。時代は変わっていく。それぞれの生き方もあるだろう。あまり締めつけたくはない」
「景虎様……」
「それで?おまえはどうしているのだ?」

 酒を酌み交わしながら、たわいないことを話す。こんな穏やかな関係になれるなど、あのときの誰が想像しただろうか。
 初めて換生し、まみえたこの海で。
 仮初めの主従だとわかっていながら契約した場所で。
 私の前で、あなたは微笑んでいる。
 不思議な懐かしさに、直江はぼんやりと遠く想いを飛ばした。
 ふと気づくと、先ほどまで穏やかに語っていた景虎が静かになっている。酒を飲み尽くしたせいか、眠気が襲ってきたらしい。うつらうつらと船を漕ぎ出していた。

「景虎様、このようなところでお休みになってはお風邪を召します」
「……ん……」

そっと肩を揺すると、景虎は小さく呟いて直江に凭れかかってきた。その拍子に、景虎の呼気が直江の頬を撫でる。

「!」

 直江は小さく息を呑んだ。
 自分より一回り細い肩に置いた手が震える。柔らかそうな唇に目が釘づけになる。

(もっと触れたい……この身体を抱きしめたい……抱きすくめて、そして…っ)

普段抑え込んでいる醜い欲望が、急速に溢れ出そうとする。
暴走しそうになる己に恐怖し、直江は咄嗟に身を引こうとした。その途端、バランスを崩して景虎が倒れそうになる。慌てて支えてやると、ようやく景虎は目を覚ました。

「ああ……眠ってしまったのか…」

 ごしごしと目をこする景虎に自らの情欲が気づかれなかったことへの安堵を感じつつも、直江はこれ以上二人きりでいることに少し苦痛を感じた。

「―――そろそろお戻りになったほうがよろしいのでは?」
「そうだな……」

 だがそう呟いたきり、景虎は動かない。

「景虎様?」
「もう少し……もう少しだけ、ここにいたい…」

(ここで、この海の音を聞いていたい)

 景虎の想いが伝わったのか、直江はそれ以上何も言わず、二人黙って火を見つめた。





 遠い潮騒が聞こえる夜。
 心から分かり合える日はまだ遠い。
 それでも、確実に鎖の長さは短くなっていく。
 がんじがらめになって、互いをその心で傷つけあう日はまだ来ない。
 だがその果てでは――――きっと望みはかなうのだ。



 出会ってから、十万回目の夜。
 真の夜明けまで、あと五万夜かかることを、この時点では誰も知らない。





[終]

紅雫 著
(2001.03.16)


[あとがき]
注:時代背景および場所の怪しさには目を瞑ってください(爆)。

10万HIT記念小説ということで、『十字架を抱いて眠れ』の第7章「十五万の夜の果て」から考えてみました。わざわざ計算機と日本史資料集の年表で、十万回目の夜がいつ頃になるのか調べたという(爆)。そしたらちょうど幕末の動乱期だったので、『オウギチャンネル!』に載ってた桑原先生の隠れ設定をちょこっと使ってみました。
この頃の二人がどのような関係だったのかわかりませんが、出会ってから200年以上経ってるんですから、今の邂逅編よりはずいぶん穏やかにはなってるんじゃないかなとは思います。
しかしあと5万夜ってことは、5万日ってことですよね……直江、道のりは長いぞ!(笑)
ではでは、これまで当店を訪れてくださったお客様すべてに感謝を込めて♪
ありがとうございました、そしてこれからもよろしくお願いいたします!


目次


サイトに掲載されている全ての作品・画像等の著作権は、それぞれの製作者に帰属します。
転載・転写は厳禁させていただきます。
Copyright(c)2000 ITACHI MALL All rights reserved.