十六夜月






シュボッ

闇の中にオレンジ色の炎が浮かび上がる。だがそれは一瞬で消え、小さな赤い光のみが暗い部屋に残された。部屋の中には他に光源はなく、窓の外の街灯だけが薄青く部屋を照らしている。
千秋修平は、深く吸い込んだ紫煙を盛大に吐き出した。

「………ったく、いい加減にしろよなぁ」

その視線の先では、190cm近い長身の男がいかにも窮屈そうにベッドに横たわっていた。すでに深い眠りに落ちているのか、千秋の独り言にぴくりとも反応しない。
時刻はまだ22時である。いつものこの男なら、シャワーも浴びていない時間だ。連日の調査活動で疲れているのだろう。
だが理由はそれだけではないことを、千秋は知っていた。





夜叉衆4人がこのホテルに着いた時、すでに外は暗くなっていた。シーズン中の観光地ではなくとも、都会のホテルは埋まりやすい。いつも通りシングル2つとツイン1つを取ろうとしたが、ツイン2つしか空いていないという。
財布係の直江は当然のように高耶と直江、千秋と綾子という部屋割りをした。だがこんな日に限って、千秋と綾子は些細なことで喧嘩をしていた。というより、いつものように千秋が綾子を怒らせてしまったのだが。
当然のように、綾子は直江に食ってかかった。

「冗談じゃないわ!こんな男と一緒の部屋で、一晩も過ごせないわよ!」
「そりゃこっちのセリフだっつーの。ったく、うるせーよ、こいつ」
「あんたが悪いんでしょ!?」
「わかった。わかったから、騒ぐな」

心底うんざりといった顔で、直江が止めに入る。高耶に至っては、他人のふりを決め込んで明後日の方を向いてしまった。

「とにかく、私、長秀と同じ部屋だけはごめんだから」
「俺だって一人がいい」
「我侭を言うな。そんなに一人がいいなら、別のホテルを探しに行けばいいだろう」

好き勝手なことを言う2人に、さすがに直江も苛々とした調子で言い放つ。

『そんな金無い』

それに対する2人の答えは、見事にハモっていた。
このままでは埒があかないと思ったのか、それまで遠くを眺めていた高耶がようやく口を挟んだ。

「………わざわざ別のホテルを取る必要はないだろ。ちょうど4人なんだから、姉さんと千秋が一緒になんないように適当に分ければいいじゃん」

そのセリフに、直江の眉間がぴくりと動いた。
それはつまり、高耶と直江が別々の部屋になるということだ。それが嫌で別のホテルを取らせようとしていたのに、この人は分かっているのかいないのか………。
だが直江の心中をよそに、邪魔者2人はその提案に飛びついた。

「そうよ。それでいいじゃない」
「俺もいいけど、大将と一緒は嫌だぜ。こいつ寝言うるせーんだもん」
「寝言なんて言わねぇよ!」
「なら私が景虎と一緒でいいわよ。久しぶりよね〜♪よし、今夜は飲み明かすわよ!」
「姉さん、明日も仕事だって」

3人はすっかり直江を無視して部屋割りを決めてしまう。

「あの、ちょっと…」

焦った直江が声を上げた時にはすでに遅く。

「じゃ、そーゆーことだから」

仲良く綾子と腕を組んだ(一方的にしがみつかれたとも言う)高耶は、ちらっと直江を一瞥すると、さっさと直江を置いて去ってしまったのだった。
これで直江が拗ねないはずがない。
かくしてすっかりふてくされた直江は、千秋が売店に行っている間にシャワーを浴び、いまどき小学生だって起きているような時間から布団に潜り込んでしまったのだった。



(不て寝するなよ、30男が)

千秋は心の中で毒づいた。
千秋自身はまだ眠気はない。よっぽどTVでもつけてやろうかと思ったが、熟睡してる奴を叩き起こして嫌味を言われるのも馬鹿馬鹿しい。かといって外へ遊びに出る元気も無い。綾子達の部屋はどうせ宴会になっているだろう。絡まれるのはごめんだ。
そんなわけで、結局千秋は暗い部屋で独り煙草をふかしているのだった。

(あーあ、俺も寝ちまおっかなー……)

千秋は溜息と共に最後の煙を吐き出すと、この部屋唯一の光源を灰皿に押し付けた。
シャワーでも浴びようと立ちあがった時、モゾ…と直江が寝返りを打ち、端正な寝顔が露わになった。
どこか疲れたような、けれど安らかなその顔に、千秋は見覚えがあった。
それに連動するように思い出されるもう一つの顔。
あれは――――景虎の涙?
千秋の中で、時間が急速に巻き戻っていった。

――――そうだ、あれは確か、江戸の遅い春………。






***






月に照らされた夜更けの道を、一人の男が走っている。急いではいるが慌ててはいないその足音は、町外れの小さな寺の前でぴたりと止まった。それは固く閉ざされた正門を叩くこともなく、小さな通用門を迷うことなく潜り抜けていく。
寺の中では、住職ではなく、旅の修行僧が待っていた。

「長秀か」
「ああ。こっちは片付いたぜ。晴家の奴が軒猿と後始末をしてるが、もうすぐ終ってここに来るだろう」
「そうか。ご苦労だったな。今日はもうゆっくり休んでくれ」
「そんなことより、色部」

長秀はぐっと身を乗り出した。それにつられて、いわゆる歌舞伎者が身に付ける派手な衣の裾がばさりと払われる。
長秀の険しい視線を受けて、色部は安心させるように一つ頷いた。

「大丈夫だ。怪我は重く意識もないが、一命は取りとめた。宿体をかえる必要もないだろう」
「そうか………」

険しかった長秀の目は、色部の言葉を受けてふっと緩んだ。

江戸近郊のこの地で怨霊騒ぎが持ち上がったのは、二週間ほど前のことである。最初は小さな怨霊事件だと思われていたものが、生き人の思惑や怨念に引き寄せられた妖怪などが入り交じり、いつの間にやら大騒ぎになってしまった。
全国から夜叉衆が集まり、今夜なんとか大元の怨霊を調伏できたのだが………。その際、調伏で意識を集中させていた景虎を狙って、怨霊を利用しようとしていた人間が攻撃してきた。それを直江が身を持って庇い、大怪我を負ったのである。
すぐさま軒猿達がそいつらを昏倒させ、瀕死の直江をこの寺に運び込んだ。そして主要な怨霊共を調伏した景虎と色部が治療に当たり、長秀と晴家は今まで後始末に走り回っていたのだった。
直江が無事助かったという報を聞き、長秀は気が抜けたような気分になった。そこでようやく、もう一人の不在者に気づく。

「景虎は?」
「直江の側にいる。自分を庇ったことで責任を感じているのだろう」

色部はしょうがない、という顔をすると、ゆっくりと立ち上った。

「私は晴家が帰るのを待ってから休むが、もし直江のところに顔を出すようなら、景虎殿にいい加減休まれるよう伝えてくれ」

――――誰よりも疲れているはずだからな。
と色部は言い残し、眠気覚ましの茶を取るために台所に降りていった。
確かに疲れているだろう。いつもの通り、この日まで休む暇もなく情報を収集し、作戦を考え、誰よりも多く調伏をしたのだから。
人間としては不完全なくせに、どこまでも完璧な大将の顔を思い浮かべ、長秀は重い腰を持ち上げた。
元敵の男を看病しながら、どんな顔をしているのかと想像しながら。



景虎と直江の関係が穏やかになってから、ずいぶんと時が経つ。まるで初めて会った時からそうであったかのように錯覚するほど。二人は言葉を交わし、共に歩き、時には微笑みさえ見せたりする。
だが果たして本当にそうなのだろうか。景虎は奥が深い。あの不思議な虎の瞳は、優しい色を浮かべたまま痛烈な毒を吐き出す。
長秀には景虎が分からなかった。いや、生前から部下である晴家にも、保護者のような色部にも、一番側にいる直江にも分からないだろう。
景虎は底が見えない。演技なのか無意識なのか、完璧な姿だけが目に焼き付いて、本当の姿が見えない。

――――中身のない人形。

そんな生前の嘲笑は、嘘っぱちだと身を持って分からされた。
そんなもんじゃない。謙信公にだって、こんな思いは感じなかった。どこまでも人間臭いくせに、まるで神のごとく完璧な采配をしてみせ、悪魔のごとく絶大な力を振るう。
一方的に好敵手視する自分に見せつけるように。
その姿に嫉妬しのたうつ直江に思い知らせるように。
自らの信奉者に、さらにその忠誠を掻き立てさせるように。

――――上杉景虎――――

この世で、もしかしたら最も恐ろしい男。





直江のいる部屋は、小さな中庭に面していた。長秀が廊下を進んでいくと、一部屋の障子が細く開いている。長秀は音を立てないようそっと引いた。

「……長秀か」

部屋の中央には布団がひかれ、青白い顔をした精悍な顔つきの男が横たわっていた。
その枕元に、長秀に背を向けるようにして景虎が座っている。

「ああ。具合はどうだ」
「ひとまず命に別状はなさそうだ。だがしばらくは動けないだろう。きちんと医者に見せた方がいいな」

どこかそっけない口調で景虎が答える。ちらりともこちらを見ようとしない。

「ここにいるということは、仕事は片付いたのか」
「ああ。俺の分はな。後は晴家が軒猿と後始末してる。明日になりゃまた不都合が出てくるだろうが、催眠暗示で処理するつもりだ」
「そうか。ご苦労だったな」

それだけ言うと、あとは口を開こうとしない。
長秀も黙って景虎の後ろ姿と直江の白い顔を見つめていた。
少し風が出てきたのか、庭から微かな葉擦れの音が聞こえる。開け放した障子のせいで、枕元の灯りがゆらりと揺れた。
十六夜月が、直江の血色の悪い顔を、さらに蒼白く照らしている。まるで死人のような顔だ。だが、それよりももっと景虎の方が白かった。白滋の肌と、人形のように無表情の顔。微動だにしない姿は、まるで置物のようでもある。

「……そんじゃあ俺は疲れたから休むが、おまえも早く休めよ。調伏の上に、直江の治療もしたんだろ」
「分かっている。もうすぐ休む」

そんなことを言いながら、動こうとしない。直江を心配しているのだろうが、全然態度にそれが見えない。自分がいるからだろうか。
いったい何を考えているのか……。

(やはりよく分からん奴だな)

とにかく、伝えたいことは伝えた。
長秀は溜息をつくと、疲れた身体を癒すために部屋を出た。部屋の障子を閉めようとした時、長秀ははっと気づいて目を見開いた。
景虎の横顔が見える。
長秀が部屋を出たあと座り直したのか。
真摯に直江を見つめ続けるその瞳が――――濡れていた。
いや、瞳だけではなく、頬も。顎を伝って零れ落ち、袴も濡らす。景虎の涙――――。
景虎は何かを堪えるように、ぎゅっと眉間に皺を寄せる。ゆっくりと震える手を持ち上げ、直江の額に触り、無事を確かめるように頬へと滑らした。

「直江―――……」

震える、吐息のような声。

恐らく初めて見た景虎の弱さに、長秀は打たれたように立ち竦んだ。
景虎が泣いている。
まるでただの幼子のように。
先程までとは打って変わって、細い背中が頼りなく見えた。
長秀はそれ以上それを見ていることに耐えられなくて、けれどそこを立ち去ることもできず、視線を直江の顔に移した。
先程と変わらず、疲れたような穏やかな寝顔をしている。薬のせいか、苦痛はそこには見えない。
だがその寝顔が、景虎に涙を流させているのだ。

長秀の中で、今までの景虎の姿が崩れていく。そうだ、やっぱりこいつは完璧なんかじゃない。同じ卑小な人間なのだ。
それが分かったのに、どうしてこんなに腹が立つ?あいつの涙を見たくないなんて、どうして思うのだろう。
どうして………。

(きっと、俺に見せる涙じゃないからだ)

景虎は、自分には決してこの涙を見せないだろう。晴家にも色部にも。長い間共に戦ってきた仲間にだって、弱さを見せたりしない。今はたまたま自分が覗いてしまっているだけだ。
だが、直江にはどうなのだろう。誰よりも景虎の側にいる男。今も、その男のために景虎は涙を流す。

(直江が目覚めたとき、景虎は涙を見せるだろうか―――?)

否、と言えない自分がいる。
それが嫌なのか。直江が特別なのが嫌なのか。
違う、そうじゃない。心の中で否定する。
自分には涙を見せないことが許せないのだ。欠片も弱さを出さないことに腹が立つのだ。
まるで、自分は頼れない、役に立たない、価値のない人間だと言われているようで。支えになることはないのだと、そう言われているようで。

この涙を止められるのは、たった一人しかいない――――。

灯りが切れ、部屋は薄暗い闇に閉ざされる。それでも景虎は動かない。長秀も動かない。
空には大きな十六夜月。
一人の男と、一人の青年と、一人の傍観者とを、いつまでも照らしていた。






今は月の代わりに街灯に照らされた直江の顔を見つめ、千秋は細く息を吐いた。
長い間の彼らの確執を馬鹿馬鹿しいと思う。愚かだと思う。周りに迷惑かけまくって、それでも傷つけ合うことを止めなくて。
それでもそれだけの想いを持つことが出来たという一点で、少しだけ二人を祝福したい気分になる。羨ましいとは死んでも思わないが。
景虎が弱みを見せないことに腹を立てていた自分はもういない。そんなことはどうでもよくなっていた。今生の景虎が、喜怒哀楽の激しい子供のような面を、自分にも惜しげもなく見せるからかもしれない。
400年の時間を超え、ようやく素直に向き合えるようになったのだ。

――――せいぜい、これ以上俺達に迷惑をかけないで貰いたいもんだ。

内心の痛烈な言葉とは裏腹に、優しい笑みを浮かべる。
きっと、誰もが願っている。この二人の幸せを―――………。






***






翌日、千秋は物音で目が覚めた。

「う〜、なんだよ。まだ7時じゃねえか……」

嫌そうに顔をしかめるが、直江は遠慮もせずに音を立てて仕度をしている。………仕度?

「なんだよ。こんな朝っぱらからお出かけか?」
「何を言ってる。もう7時だ。高耶さん達を起こして、さっさと調査をするぞ」

――――もうだと?
長秀の眉が跳ね上がった。

(じじいほど朝が早い)

長秀はすんでのところで、悪態を口の中で噛み潰した。なぜならば、直江が早い理由は調査ではなく、高耶がどうしているか気になっているからだと気づいたのだ。

(ってことは、これからあっちの部屋に乱入か。こいつは面白そうだ)

勝手に想像した千秋は、いつもの寝起きの悪さを蹴飛ばして、慌てて直江に引っ付いていった。




力で無理矢理鍵を開け、侵入する。

「高耶さん、朝ですよ………!!!」

膨らんだベッドの前まで来て、直江は竦んだように立ち尽くした。なんと、そこでは高耶と綾子が仲良く一つのベッドで寝ていたのである。 もう一つのベッドは寝た形跡がない。

(おおっ!やっぱ面白いことになってやがんな♪)

ぶるぶると震えている直江の横からそれを見た千秋は、とばっちりがこないよう遠く離れつつ、成り行きを見守った。

「高耶さん!起きなさい!!」

直江の大音量が部屋に響く。

「……む〜………なに………?」

だが当の高耶は、のんびりと目を擦ってあくびをしながらのお目覚めだ。横では綾子も
「うるさいわね〜……」
と呟いている。

「うるさいじゃない!なにをやってるんだ、おまえは!!」

キレた直江の声がエスカレートする。ようやく起き上がった二人は、直江の形相を見てさすがに慌て出した。嫉妬に狂った直江ほど恐ろしいものはない。

「しょうがないだろ。昨日姉さんが、そっちのベッドに酒こぼしちゃったんだよ」
「そう、そうなのよ!だから仕方なく景虎のベッドに入れてもらって……」

だが直江は冷たい瞳のままだ。

「晴家、おまえは浴びるほど酒が好きなんだろう。だったら酒臭いベッドでも我慢して寝ろ」
「直江、ひどい!」
「高耶さんも高耶さんです。だいたい貴方という人は………」

直江がお説教モードに入ってしまった。こうなると長い。そして高耶もムキになる。

「うるせーな。このくらいでいちいち騒ぐんじゃねーよ。朝っぱらから説教すんじゃねぇ、このジジイ!」
「………相変わらず口が悪い。今すぐここで、ジジイじゃないことを確かめさせてあげてもいいんですよ?」
「ちょっとちょっと、いい加減やめなさいよ」

もはや泥沼である。綾子はなんとか仲裁に入ろうとするが、二人はすでにお互いしか目に入っていなかった。

「長秀!あんたそんなとこで見てないで、ちょっとは止めなさいよ!」

綾子の八つ当たりを受けた千秋は、だが軽く肩を竦めただけだった。

「冗談。俺はもう二度と、そいつらの痴話喧嘩には関わらねぇって決めたんだ。好きにさせとけよ」
「無責任!」

なんとでも、と口の中で呟いて、手慣れた仕草で煙草に火をつける。痴話喧嘩なんて、陰険な泥沼合戦より百倍もマシってものだ。
窓から見上げた空は、綺麗に晴れ渡っている。この分なら、今日の調査は楽々進むだろう。仕事も早く片が付きそうだ。
千秋は満足そうに煙草をふかして笑った。

「今日も平和だねぇ」





[終]

紅雫 著
(2000.07.14)


[あとがき]
注:回想シーンの江戸時代は、晴家が女になる前(つまり江戸初期頃)だと思ってください。

8888カウントゲッター琥純様のリクエストで「寝ている直江とそれを見ている千秋」というお題だったのですが……なんか違う?(汗)
どうも千秋と直江って絡みにくくて、ついつい千秋の視線は景虎様に流れることに。まあ、直江は景虎様の影ですから(←ひどい)。
相変わらず拙い文章ですが、琥純様に捧げさせていただきます。8888カウントゲット、ありがとうございました♪


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