悪魔と踊れ ―前編―
神が生まれた日を間近に控え、街は喜びの喧燥に包まれる。
幾百年、幾千年の時を超え、祝い続けられてきた聖なる夜が、再びこの世に訪れていた。
クリスマス・イヴ。
その日に変わる瞬間を、誰もが待っている夜。
敬謙なキリスト教徒はそれぞれの教会に集い、自らを創造せし神の誕生に感謝した。
キリスト教徒でない人間ですら、この日はお祭り気分で酔い騒ぎ、日頃の辛さも苦しさも忘れた。街行く人々は皆明るい顔だった。
一歩表通りを外れれば、娼館やカジノが並び、淫らに神の生誕祭を過ごす。クリスマス仕様で派手に凝らした外装は、いっそう独り者の意識を誘う。
だが、そのさらに奥へと続く道は、決して覗いてはならない。
いやらしいピンクのネオンすら届かないそこは、神の威光など届きようもない暗黒の世界。
神のいない世界――――。
ゴーストタウンのように人気のない寂れた住宅街の真ん中に、ぽつんと教会が一軒建っている。時折雲の合間から顔を見せる細い月が、不気味に教会を照らしていた。
クリスマス・イヴだというのに、明かりが灯されるどころか窓という窓に板を打ちつけてあるその姿は、一目で廃屋だと知らしめる。周りの家々と同じように暗闇に沈む外壁は、何百年もそのままだったようにも感じるし、廃屋になってからまだ数年しか経っていないようにも思えた。
建物の間を吹き抜ける風が起こす不気味な音は、闇の嘲笑か。ガタガタと、どこかで立て付けの悪い戸が鳴っている。三角の塔のてっぺんに立つ木造の十字架だけが、聖域であることを示すように、微塵も揺れなかった。
その誰も訪れないはずの教会に、一人の男が忍び込んでいた。見上げるような長身の黒いコートの下には、聖職者特有の詰め襟が見える。恐らく首には銀のクロスがかけられているのだろう。
頼りない月明かりの下のその顔は、神に仕える者というより、TV番組に出てくる俳優のように整っていた。だがその眼は獲物を狙う狩人のように、鋭くあたりを観察している。
男―――直江信綱は、ローマカトリック教会直属の聖職者だった。だが、その事実を知る者は少ない。限られた人間しか知らない、特殊な任務を請け負う者。
それが今、神が生まれた日の目前、この地にやって来た。
暗闇の中を、直江は懐中電灯もつけずに危なげなく歩く。教会の中央にある礼拝堂を足音も立てずに通り過ぎ、隣の小さな部屋へとそっと侵入する。その部屋の端の床に、地下倉庫らしい扉があった。どの家にでもあるそれを、直江は注意深く音を立てないようにゆっくりと持ち上げた。そこには、あるはずの缶詰やウィスキーの瓶はなく、地下深くへと伸びる階段があった。その先には何があるのか、ぼんやりと明るくなっている。
直江は扉を支えたまま、すばやく中に身を滑り込ませた。
まる一階分降りた階段は、そこで横へと伸びる通路へと変わる。それはすぐに行き止まり、大きな木製の扉が直江の前に立ち塞がっていた。どこかおどろおどろしいその扉の両脇には、短くなった蝋燭が燃えている。
直江はそこで立ち止まった。
今までにない緊張が、直江の顔に走る。
その扉の奥は、ちょうど礼拝堂の真下の位置になるはずだ。
神聖なる十字架の下にある部屋。
直江は床にはりついた足を持ち上げ、そっと扉に歩み寄った。唸るような、謳うような、不思議な声ともつかぬ声が微かに聞こえてくる。
中で何が行われているのか、直江はすでに確信を持っていた。
静かに瞳を閉じて、全神経を集中させる。
その手には黒光りする鉄の塊が握られている。入っているのは、聖地で清めた銀の弾丸。
呼吸を整え、ゆっくりと瞳を開けた。
自分は一人だ。味方はいない。
失敗はすぐに死を意味する。
だがそれに恐怖は感じていなかった。
むしろ、高揚する精神を抑える。
大切なのは、タイミング――――。
一際大きな声が叫んだ。
「我らが前に、その姿を現したまえ!」
その瞬間、直江はかっと目を見開いて木製の扉を蹴破った。
サバタ――――悪魔崇拝の儀式。
いや、これは悪魔そのものを呼び出す禁断の儀式だ。
神を祝う夜に、最も神を冒涜する行為が、今ここで行われようとしていた。
部屋は真上の礼拝堂と同じだけの広さがあった。
その中央に描かれた大きな魔法陣。
最奥には神ではなく悪魔に奉げるための祭壇。
その上に乗っているのは、全裸の――――おそらく処女。
魔法陣の中央に置かれた肉塊を見るまでもなく、心臓を抉られているのが分かる。
(遅かったか)
直江は瞬時に状況を読み取った。
魔法陣の四方に一人ずつと、祭壇の前に一人、そして部屋の周りの壁で蠢く30人ばかりの、黒頭巾を被った狂人達。
――――これが、敵だ。
「な、なんだ貴様は!」
呆然と飛び込んで来た直江を見た祭壇の男は、はっとしたように叫んだ。驚いて呪を唱えるのを止めてしまった魔法陣の男達を叱り飛ばす。
「お前達は呪を止めるな!邪魔はさせん!」
壁際の黒頭巾を被った者達が、直江を捕らえようと手に手に武器を持って立ち上る。
だが直江はそれより早く動いていた。
真っ先に祭壇の男を狙う。
引き金をひいた。
パン!
乾いた音を立てて、銀の弾丸が祭壇の男の額にめり込んだ。
血飛沫を上げて、男は倒れてゆく。
わあああああっ!
悲鳴と怒号があがり、黒い波のように狂信者が直江に押し寄せた。
直江は躊躇いもなく引き金をひき続ける。その度に、一人もしくは二人以上が、確実に命の灯を消されていく。それでもひるまずに、人波は直江に掴みかかって来た。
弾層が空になった銃を近づく男の顔面に投げつけ、直江はコートの裏に手を伸ばした。
襟を掴みあげた手を、返す一閃で切り飛ばす。
再び血飛沫が上がった。
「ぎゃあああああっ!」
直江の手には片刃の剣が握られていた。柄にはヴァチカンの紋章が描かれている。これも聖剣の一つだ。
襲い掛かってくる狂信者達を、情け容赦なく切り、もしくは殴り飛ばし、直江は中心の魔法陣へ近づこうとする。そこではいまだ悪魔召喚の儀式が続いているのだ。これを止めなければ、自分がここに来た意味がない。
だが光に群がる虫のように狂信者に囲まれて、直江はなかなか魔法陣に近づけない。逆に押し返されて、中心から遠ざかってしまう。
(まずいな)
焦りが生まれたその時、肩口に熱い痛みを感じた。さらに、首筋に棍棒が叩き込まれる。
「……!」
ぐらりと視界が揺れて、魔法陣が人垣の向こうに見えなくなった、その瞬間。
「なんだ、これは…違う!?」
「そんな馬鹿な…っ、うわあああああ!」
恐怖に染まった悲鳴が上がった。
瞬時に体勢を立て直した直江は、目の前の数人を切り倒して悲鳴の方角を振り返り、厳しく眉を寄せた。
(しまった!間に合わなかったか)
魔法陣の真上に、奇怪な生き物が浮かんでいた。人と同じように直立していながら、人間の数十倍に膨れ上がった筋肉も、手足に黒光る鋭いカギ爪も、裂けた口から覗く発達しすぎた犬歯も、なによりその瞳に浮かぶ残忍な赤い光が、 それが地上の生物ではないことを示していた。
――――悪魔。神に背き、人を陥れ、人を弑するモノ。
とうとう彼らは召喚に成功してしまったのだ。
呼び出された悪魔は、必ず契約を求める。そして人間の望みがどんな些細なことでも、悪魔はその命を代償として奪っていく。
忘れてはいけないのは、悪魔は願いを叶えてくれるだけの存在ではないということだ。
悪魔が人と契約を交わすのは、地上に出るために人間の力が必要だからといわれている。悪魔は神によって地下深くに追放されたときより、神の力が満ちる地上に出る事は叶わなくなった。だからこそ、神を裏切った人間の手を借りる必要があるのだ。
しかしいったん地上に出てしまえば、あとは自由が待っている。術者の契約には縛られるものの、その契約も果たし終えれば、悪魔は自らの欲望のおもむくままに暴れ出す。たいてい召喚者が最初の犠牲者になるのは、再び縛られる事を恐れるゆえなのだろうか。
魔法陣の化け物がわけのわからない叫び声をあげる。術者達は反射的に後ずさった。よく見れば、化け物の手には人の首らしきモノが握られていた。
(暴走!?)
正式に契約しなければ、悪魔はこの地上に存在し続ける事はできない。そのため真っ先に契約を結ぼうとするのだ。だが目の前の化け物はなんの制約もないように、周りにいた人間を次々と食い殺していく。
「ぎゃああああああぁ……!」
後方から聞こえる悲鳴に、直江に群がっていた者達もようやく異変に気づいた。
「な、なんだあれは!」
「化け物…っ!」
その隙に直江は群集から抜け出そうとする。しかし気づいた信者の一人が、立ちふさがるように錆びついた剣を振り回した。狂ったように哄笑するその瞳には、周りの惨劇すら歓喜として映るようだった。
「通さんぞ!あれが新しい我らの神となるのだ!貴様は新世界創造の生け贄にしてやる!」
「馬鹿な、あれが神になどなるものか!」
手強い相手に、直江は舌打ちして短剣を構える。常ならば手こずる相手ではないが、すでに10人以上と渡り合った後の身体には疲労の色が濃い。
悲鳴と怒号は数分間絶え間なく響き、気がつけばすでに動いている者は自分と目の前の男のみになっていた。
すべての人々を食い殺した悪魔は、まだ足りないのかこちらに残忍な顔を向けている。手を出そうとしないのは、自分と男の死闘を楽しんでいるからか。ずる賢そうなその瞳には、たしかに知性が存在していた。
(どちらかが死ぬのを待っているのか)
舌なめずりしそうなその顔に、直江は嫌悪感から吐気がした。
だがそれはほんの少しの隙になった。目の前の男は、それを見逃さずに鋭く打ち込んでくる。
「死ねえぇぇ!!」
「くっ…!」
咄嗟に身体を捻って躱し、完全に無防備になった背中に剣を突き立てた。
「ぐぅっ!」
うめきと共に大量の血を吐き出す。どんっと背中から剣を引き抜かれても、男はまだ倒れない。よろよろと魔法陣に近づいていく。
「か、神よ……、我に、力を……!」
その願いが叶えられることはなかった。
自ら近づいて来た餌を、悪魔はなんの感慨もなく捻り潰す。ぐしゃっという音が、静かになった広間に響き渡った。
――――これで、この空間で動くものはたった二つ。
凶凶しい光を宿した瞳と、清浄な気が溢れる瞳がぶつかる。
直江は肩で息をしながら、重たい身体に再び緊張を走らせた。
ようやく本番に入るのだ。こいつを始末することが、この仕事の終りを意味している。
直江は血に塗れた聖剣に、懐から取り出した聖水を降り注いだ。水蒸気をあげながら、汚れが落とされていく。
暗く揺れる蝋燭の炎を映している怜悧な刀身に、化け物は初めて敵意を剥き出しにした。聖剣に再び満ちた力に気づいたのだろう。そして直江が、忌み嫌うカトリックの人間だということも。
咆哮をあげて襲い掛かってくる巨体を紙一重で避けながら、呪を唱える。
幾度か鋭い爪が皮膚を薄く切り裂く。
悪魔に普通の剣は聞かない。聖剣といえども、致命傷を与えるのは困難だ。だからこそ、特殊な人間以外に悪魔を倒すことはできない。自分のようなエクソシストの力が必要となるのだ。
「我らが神の御名の元に、我が請願に答えよ。汝は縛めるものなり、汝は捕らえるものなり。我が前に姿を現せ!」
自らが操る精霊の名を呼ぶ。
突如床が盛り上がり、植物の枝が、蔓が、根が、爆発するように出現した。
「汝が力で、我が敵の右腕を捕らえよ。我が敵の左腕を捕らえよ。我が敵の両足を捕らえよ。十字の縛めに、我が敵の全てを封じ込めよ!」
ざあああああっ
直江の呪が完成した途端、精霊は悪魔の身体を捕らえようと一斉にその蔓を伸ばす。悪魔は奇声を上げ、逃れようと腕を振るい、幾度もなぎ払うが、直江を倒さない限り精霊は攻撃をやめることはない。
初めに右腕が捕らえられ、ついで左腕が捕らえられ、最後には両足をまとめて縛められる。
神が最後に晒した姿と同じ形にこそ、この縛めの意味がある。
悪魔は咆哮をあげ、持てるすべての力を使ってこの呪から逃れようとするが、身を捩ることすら叶わなかった。
悪魔の力を封じる十字の縛め。
直江は手にした聖剣を、誓いを立てるように天に向けた。
「我は望む。我が神の御力にて、我が敵を滅ぼさんことを。聖なる灯火よ、我が剣に宿り、我が敵を破却したまえ!」
カッと剣が光り、一瞬あたりを眩く照らす。
悪魔が恐怖の叫びを漏らした。
そして、肉を断ち、骨を断つ感触――――。
があああああああああっ!
断末魔の悲鳴が、血のたちこめる部屋に響き渡る。
すべてが終ったのだと、天にまで告げるように。
直江は小さく溜息をつき、コートに仕込んだ鞘に剣をしまった。そこかしこに血溜りの出来ている部屋を横切り、自ら投げ捨てた銃を拾うと、それも血を拭ってから懐にしまう。
もう一度溜息をつき、他に動くもののない部屋を見渡す。これだけの死者が出たのは久しぶりだった。肩の傷にそっと手を置き、直江は厳しく眉根を寄せた。
重苦しい疲労感は消えない。傷の痛みも、臭気から込み上げる吐気も。だがそれ以上に、直江は違和感を拭い切れなかった。
(あの程度の小物を呼び出すために、これだけの人数が集まったのか?)
それにしては祭壇の規模も、術者の数も、あまりにも大袈裟だ。しかもこんなクリスマスイブの夜に、これだけ大掛かりなことをした以上、もっと手強い悪魔を呼び出すものと思ったのだが。
さらに、呼び出され、契約を交わす前に暴れ出した悪魔。
契約前なら、悪魔はその魔法陣によって縛られる。魔法陣には悪魔の真名が刻み込まれており、これが檻にも守りの壁にもなりうるのだ。
だがあの悪魔は魔法陣に縛られることなく、また呼び出した術者にすら縛られなかった。
これはいったいどういうことだ。
直江は考えるが、疲労のこびり付いた頭では明快な結論が導き出せるはずもない。あまりここに長居するわけにもいかない。後は組織に任せ、ひとまず引くべきだろう。
直江はひとつ頭を振ると、血塗れの地下室から神の力が溢れる地上へと帰っていった。
――――そう、すべては終ったはずだったのだ。
[あとがき]
注記:悪魔に関する記述は全部でたらめです(爆)。今まで読んだいくつかの漫画から組み合わせ、オリジナルの設定を作ってます。
まいこ様のHP「プーティ ウィッ?」の666カウントGETで頂いたイラストのイメージのベルです。
『天使のKiss』と同じくクリスマスイブのお話にしてみましたが、設定は全然違います。直江は牧師じゃなくて神父だし(笑)。
最初はもっと短く簡単になるはずだったのに、シチュエーションに凝りすぎてどんどん長くなり、ついには高耶さん後編のみの出演という事態に(爆)。
……すべては前半異様に出張っているモブ達のせいってことで!(笑)
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