悪魔と踊れ ―後編―
地上に戻った直江は、地下倉庫の扉を元通りに閉め、外への扉がある礼拝堂へ向かった。
地下での惨事が嘘だったかのように、礼拝堂は静寂に満ちている。だが汚された聖域は、二度と元には戻らない。元が神気に満ちた場所であったほど、またそこに多くの血が流れたほど、その地は魔に属するものが集まりやすくなる。
この教会も、すぐに組織によって破壊され、土地の浄化が行われるだろう。
そんなことを考えていたためか、直江はまったくその存在に気づかなかった。いや、それ以上に、ソレの力の方が上だった。指折りのエクソシストである直江ですら、声がするまで気づかないほど。
くすり、と。
扉に手を掛けた直江の背後で笑い声が聞こえたのは、その時だった。
(なに……!?)
恐怖に近い驚きで、直江は反射的に振り返った。
人の気配はなかった。否、あらゆるモノの存在が、たった今まで感じられなかったというのに。
なにかが、いる。
半ば雲に隠された細い月が、ステンドグラスから弱々しい光を投げ込んでいる。その光に照らされた十字架の下、宣教台の上に、片膝を抱くようにして黒い影が座っている。
逆光でその姿はよく見えない。
だが、笑っているのは確かにその影だった。
この時間、このような場所に、気配を感じさせることなく存在するモノなど、普通の人間ではありえない。
「……何者だ」
低い誰何の声に、影はようやく笑いを納めた。
「――――面白いものを見せてもらった」
影が、明確な言葉を発する。それはまだ青年のような声だった。よく見れば、体格もそれほど大きくはない。
だが気配を殺すことをやめ、その身体から圧倒的なプレッシャーを放つコレが、ただの青年であるはずがない。
それを裏付けるかのように、青年の背後で何かが蠢いた。
ばさり、とソレが空気を打つ。
青年の背から、翼が生えている。
柔らかな羽根がついていただろう翼は、今は黒く節ばった骨と皮をさらしている。
その先端の鋭い爪と、頭のねじれた角は赤黒く光っている。
直江は、自分が生唾を飲みこんだことを自覚した。
(悪魔――――)
それも先程片付けたような雑魚ではない。おそらく、かなり高位の悪魔。あの翼と角は、至高の天から落とされたモノのみが持つ証だ。
堕天使――――もっとも恐るべき悪魔。
その時雲が完全に月を隠した。逆に直江の背後から遠い街の明かりが差し込み、ソレの顔を照らし出す。
息を呑むほど美しい顔が微笑んでいた。
「……!」
その瞬間、何もかもを忘れて、直江はその瞳に魅入られていた。
二つの紅玉が、直江を見つめていた。
それは凶凶しいほどに血の色をしているにも関わらず、どこか透明な清冽さを感じた。
真っ直ぐな瞳が、残忍でもなく、凶悪でもなく、むしろ無邪気で優しささえ感じるような微笑みを浮かべている。
「こんな夜に呼び出されて少し腹が立っていたんだが、おまえのおかげで楽しめた」
満足そうな笑みを浮かべる堕天使に、直江は先ほどの疑問の答えを得た。
やはりあそこで召喚されようとしていたのは、あの雑魚ではなく今直江の目の前にいる、力に溢れる堕天使だったのだ。あの怪物はこの堕天使の部下か何かに違いない。
人間ごときの手を借りずとも、彼ら堕天使と呼ばれる高位魔族はこの地上で好きに欲望を満たすことができる。それゆえ人間に召喚されることを、ほとんどの高位悪魔は不愉快に感じる。
おそらくこの堕天使も、腹立ち紛れに召喚者全員を殺す、殺戮ゲームを楽しもうとしたのだろう。図らずも、自分はその手伝いをしてしまったのだ。
だが利用された怒りはなかった。
殺戮にも、何の興味もない。
あの怪物がやらねば、自分がやったかもしれないことだ。
今はすべてがどうでもよくなっていた。
カトリックの掟も、両親や師や友人達の顔も、この世のなにもかもが、たった今、一瞬で意味を無くした。
魅入られたのだ――――この美しすぎる瞳に……。
言葉もなく立ち尽くす直江に、堕天使はなおも語りかける。どこか嬉しそうなそれは、新しいオモチャを見つけた喜びに似ているかもしれない。
「聖職者が、聖なる夜に人殺しをするとはな。アレを滅ぼした腕もなかなか大したものだった。こんなに楽しかった夜は久しぶりだ。礼を言うよ」
そうして婉然とした微笑みで、堕天使は誘惑の言葉を囁く。
「褒美をやろうか」
「――――褒美?」
直江は初めて堕天使の言葉に反応した。それに気をよくしたのか、悪魔はきらりと瞳を輝かせた。
「そう、オレを楽しませてくれた褒美だ。なんでも一つ、願いを叶えてやろう。どんなものでも、どんなことでも。オレに叶えられぬものはない」
だが当然、無償ではない。
悪魔は無償で願いを叶えることはない。
契約を求めているのだ、直江に。
それすらも、この堕天使にとっては珍しく気が向いたための大盤振る舞いなのだろう。高位の悪魔は人間と関わることを嫌がる。召喚に応じることも希なら、その願いを聞き遂げることなどさらに希だった。
(どんなことでも――――)
直江は無意識の内に一歩踏み出した。
すべては、この悪魔に魅入られた一瞬で捨て去っていた。
迷いは存在しない。
指が、首に掛かったクロスに触れた。
ぶちっと鎖が音をたてて引き千切られる。
乾いた音をたてて、神の印が投げ捨てられた。
彼の視線を感じる。
彼が自分だけを見ている。
心の奥から、じわじわと欲望が突き上げてきた。
その欲望のままに、直江は口を開いた。
「あなたが欲しい」
願いはたったひとつ。
「あなたが、ほしい」
悪魔に魂を売り渡しても。
「あなたを、私にください」
手に入れる――――。
予想外の願いだったのか、堕天使は目をみはって直江を凝視した。だが一瞬でまた興味深げな瞳になり、からかうように嘲笑う。
「オレのなにが欲しいんだ。身体か?一回ヤらせて欲しいのか。それとも、オレの生命が欲しいのか?」
「全部です」
間髪入れずに直江は言葉を返す。
「あなたの身体も、心も、生命も、あなたを構成するすべてが欲しい。あなたのすべてを、永遠に俺のものにしたい!」
罠だと知らないわけではなかった。
美しい外見は、人を惑わすための罠なのだと、組織に入って真っ先に教えられた。
それでも心を奪われてしまったのだ。
悪魔に愛を囁くほど、愚かなことはないと知っていたけれど。
あなたのすべてが手に入るのなら、世界が消え去っても構わない。
「あなたを愛している」
一歩一歩近づいて、とうとう目の前まで近づく。
「あなたを、愛している」
どこまでも美しいその顔が、やがて花が開くように微笑むのを直江は陶然と見つめていた。
「面白い男だ」
そして、ふわりと手が差し伸べられる。
直江はそれを、遠い世界の出来事のように感じた。
自分で求めておきながら、目の前の光景が信じられなかった。
目をみはっている直江に、傲慢な囁きが告げる。
「いいだろう。オレを、おまえにくれてやる」
呆然としたまま、差し出された手に腕を伸ばす。
その手が体温のない冷たい腕に触れた瞬間、理性の枷は飛んでいた。
細い手首を握り締め、荒々しく宣教台から引きずり落ろす。
固い床に打ち据えられても、悪魔は傲慢な嘲笑を浮かべたままだ。
堪えられず、がむしゃらに口唇を重ねようとすると、冷たい指がそっと押し留めた。それだけで直江は凍りついたように動けなくなる。
「おまえの名は?」
「………直江信綱」
「直江……」
囁いて、空いている方の手で男を引き寄せる。耳に口づけるようにして、甘く言霊を吹き込む。
「オレは今からおまえのものだ。その代わり、契約の代償としておまえを貰おう。おまえは今からオレのものだ。オレが飽きるまでそばにいて、オレを楽しませろ」
再び目を見開いた直江を、堕天使は嘲笑いながら見つめる。その手に羊皮紙の契約書が出現した。そこにはすでに契約内容と互いを縛る真名が刻まれている。
「――――オレの真名は"高耶"。二人きりのときはこの名で呼ぶがいい。ただし、他の者がいるときは"景虎"と呼べ。オレの通り名だ。……さて、この契約書はどこにしまうか……」
考え込むように伏せられた高耶の瞳が、ふと直江の胸に向けられた。そして悪戯を思いついた子供のように、嬉しそうに笑う。
「よし、そこにしよう」
細い指先が、コートを剥ぎ下の詰め襟のボタンを外していく。露わになった直江の胸には、ローマカトリック教会直属のエクソシストの証である紋章が刻まれていた。
「ここが、いい」
「……っ」
躊躇いもなく爪が立てられた。紋章を引き裂くように爪が進むに従い、その痕から赤黒い血が盛り上がる。
紋章の上に大きく逆十字が描かれた。神に背く印だ。じくじくと痛むそこからは、後から後から血が溢れている。直江は黙ってそれを見つめていた。
高耶は微笑むと、その傷口の中心に丸めた契約書の先端を押しつけた。
「ぐ……っ!」
ものすごい圧迫を感じ、直江が低くうめく。だが高耶はおかまいなしに、ぐいぐいと契約書を押し込もうとする。
だんだんと、契約書が直江の身体に埋め込まれていく。やがてすべてが呑み込まれた。胸に残ったのは逆十字の傷のみで、異物が埋め込まれたような痕はどこにもみられない。
直江は呆然と自分の胸を見下ろした。
契約は結ばれたのだ。
血に欲情する堕天使は婉然と微笑んで、爪についた直江の血を見せつけるように舐める。
直江が望む言葉を、その口唇にそっと乗せる。
「おまえは、もう、オレのものだ……」
契約の証は、爪で胸に刻まれた逆十字の刻印。
この痛みも、すべて喜びに変わる。
あなたを手に入れられるなら。
申し訳程度に腰から下を覆っていた布を剥ぎ取りながら、全身にキスの雨を降らす。
激情のままに乱暴な愛撫を加え、快楽の反応を引き出す。
この存在を前にして、余裕を持つことなどできなかった。
早く、強く、どこまでも奪い尽くしたい。
長く、深く、どこまでも埋め込んでやりたい。
このすべてを自分のものに。
なにもかもを自分のものに。
荒い息をつきながら、耳朶に噛みつくようにその真名を囁く。
自分に縛りつけるように。
「高耶さん…っ」
「もっと呼べよ…」
「高耶さん……!」
「もっとだ………」
「……高耶………っ!」
「……もっと……………っ」
自分の上で翼をはためかせながらゆらゆらと踊る悪魔は、壮絶に美しい。
濡れた音も、狂喜の悲鳴も、滴る体液も、蕩けきったアソコも、ナニモカモが男を誘う。
「愛している…」
「…ン…ッ」
「あなたを愛している…ッ」
「アァッ!」
十字架の下で、悪魔を犯す。
サバタより酷い、最悪の冒涜。
クリスマスイブ。
神との決別に、これほどふさわしい夜はない。
神が生まれるその前に、この世界からあなたと逃げ出そう
[あとがき]
高耶さんというより、景虎様の風格がありますよね、このイラスト♪
しかしイラストに見合うだけの作品かといえば……逃げておこうか(爆)。
この話は、言葉ではなく映像が頭に浮かんでしまって、それを文章にする作業がなかなか大変でした。どうも頭のイメージと文章のイメージがしっくりこないんですよね〜。
おまけにあまりにも前半が長すぎたせいで、小太郎は出せなかったのでした。ああ、口元から血を滴らせる黒豹を書きたかった…(涙)。
ちなみにこちらでUPしてある悪魔イラストは黒い背景ですが、一番茶には白い背景のものもあります。こちらもぜひご覧あれ♪
素敵なイラストをくださったまいこ様には、あらためてお礼申し上げます。本当にありがとうございました♪
【改訂】(2003.10.20)
まいこ様に頂いたイラストはご返却いたしました。小説のみお楽しみください。
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