MISTAKE


【前編】





寒風吹きすさぶ、ある冬の日のこと。
いつもの通り、東京の直江のマンションに勝手に上がり込んだ高耶は、一瞬違和感を感じた。

(香水の匂い…?)

眉をひそめてあたりを見回す。
だがそれは本当に一瞬のことで、高耶は気のせいかと思い直した。



今日は、直江は留守だった。
合鍵を持たされている高耶は、それでも時々は直江の世話を焼きに来てやっている。
あの男は放っておくと、食事は全て外食で済ますからだ。

「そんなの身体に悪い上に、金がもったいない!」
と言って庶民の高耶が怒ると、
「じゃあ、時々高耶さんの手料理を食べさせてくれませんか?」
と直江はにっこり笑ってほざいた。
その言葉に乗せられて、高耶はまんまと合鍵を持たされてしまったのだ。

直江がいなくても高耶は食事の支度をし、部屋を掃除してやる。というより、直江がいないときを狙って来ているといってもいい。
なぜかといえば、いるときに来たりしたら最後、必ず直江のペースに乗せられて、気づいたときには押し倒されているのである。
その日のうちに帰りたければ、直江がいないときに来るのが得策だった。
だからこそ今日も、直江が実家の手伝いで抜けられないことを確認した上で来たのだが…。


今朝の直江はよほど急いで出たらしい。
いつもは綺麗に片付けてある灰皿やコーヒーカップも、今日はそのまま置いてある。
そのカップを片付けようとして、高耶はぴくりと身体を強ばらせた。
ピンクがかった口紅がついている。
なんだか嫌な予感がして、今度は灰皿を見てみた。
そこには直江が吸わない女性向のタバコの吸い殻があった。
そしてフィルター部分についた、同じ色の口紅…。

(……っ!)

一気に頭に血が上る。
高耶はカップを乱暴に机に戻すと、足音も荒く寝室へ向かった。

バタン!

音を立てて寝室のドアを開き、鋭い視線をキングサイズのベッドに走らせる。
直江は寝相がいい。1人で寝たならば、布団が乱れることはそうそうない男だ。
だが今高耶の目の前にあるベッドは、布団は半分ずり落ち、シーツもぐしゃぐしゃに乱れていた。
そして最初に嗅いだのと同じ香水の匂い…。

高耶は怒りで目の前が真赤に染まるのが分かった。

(あの野郎〜!!!)

状況証拠は揃っている。
これはどう贔屓目に見ても、あの男が浮気をしたとしか考えられない。

高耶はそれ以上ベッドを見ることに耐えられなくて、力任せに寝室のドアを閉めた。
高耶の目に、じんわりと涙が浮かんでくる。

(あいつ、絶対浮気しないって言ったくせに!)

それは、このマンションで最初に決めた約束事。
高耶はまだ直江と一緒に暮らすことは出来ない。
その代わり、この東京のマンションになるべく来るようにする。
だからどんなに欲求が溜まっても、自分以外は抱かないと約束させたのだ。

それなのにあの男は!!

確かにこの一ヶ月ばかり忙しくて、直江に足止めされたくなかったから、直江のいないときばかりを狙って来ていた。
顔を合わせても抱かれることはなかった。
だがしかし、浮気を許せるほど寛大ではないのだ。

鳴咽が込み上げてくるのを必死で堪えて、高耶は顔を上げた。

(これ以上、こんなところにいたくない)

深呼吸をしてなんとか表情を整え、高耶は上着を引っ掴むと何もせずに部屋を出た。
マンションの玄関で、一瞬だけ振り返る。

怒りは覚めず、その熱で心がからからに干からびてしまったようだった。

(あんな男、二度と会わない!)

高耶は断ち切るように踵を返し、振り向くこともなく去っていった。




高耶が帰ってから2時間後、直江は意外に早く帰ってきていた。

「なんだ…。来ていないのか」

てっきり高耶が来ているものと思っていたのだが。
実は今日の法事が先方の事情で延びてしまい、早く帰れることになったのだ。
その帰り道で高耶の家に電話を入れたら美弥が出て、
「兄は今日は夜遅くなるって言ってました」
と言ってくれた。
これはマンションの方に来ているな、と思って、車を飛ばして帰ってきたのだが…。

直江は少しがっかりして、疲れた体を休めようとリビングのソファに座り込んだ。
ふと灰皿とコーヒーカップに目が止まる。
途端、直江は大きく溜息をついた。


それは昨日の夜のこと――――。
何度か関係を持ったことのある、しかも気が合った友人のような女性が突然押しかけてきたのだ。
何事かと思ったら、どうやら旦那と大喧嘩をしたらしい。
東京へは最近来たばかりで他に行くあてもなく、投げやりな気持ちも手伝って直江の元へと来たようだ。
むげにするわけにもいかず、しかし高耶との約束がある以上手を出すわけにもいかない。
仕方がないのでベッドを提供して、自分はこのソファで寝たのだった。
おかげで寝苦しくてなかなか眠れなかった。
女性は朝のうちに駅まで送っていったのだが、どうやら彼女も眠れなかったらしい。
結局朝は寝坊してしまったためベッドはぐちゃぐちゃ、部屋は散らかしっぱなしという状態で宇都宮へ帰ることになってしまったのだ。

良く考えてみれば高耶が来なかったのは幸いというべきかもしれない。
なにしろ今この部屋には、女性がいた証がいくつも残っている。
こんなものを見た日には、さらに1ヵ月は触れさせてもらえないだろう。

直江はそう考え直した。
そしてシャワーを浴びるため、立ち上がる。
その時微妙に、本当に微妙にだが、高耶の気配の残滓を感じ取ったような気がした。

(まさか…)

まさか本当は来て、そして誤解して帰ったのではないだろうな。
恐ろしい予感に背筋が一瞬寒くなる。

(気のせいだろう)

だが直江は自分にそう言い聞かせ、その事実をすぐには確かめようとしなかった。

その"まさか"が事実だったことに気づかされるのは、すぐ翌日のことである。




「お兄ちゃん、また直江さんから電話だよ」

美弥がひょっこりと高耶の部屋に顔を覗かせた。

「いないって言え」
「ええ〜!?美弥もう嫌だよ、嘘つくの。これで3回目じゃない」

膨れっ面になって高耶を睨む。

「直江さんと喧嘩したの?」
「……」

高耶も無言で美弥を睨む。
だが美弥は自分に甘い兄に睨まれても、恐いとは思わなかった。

「とにかく、ちゃんと出てね。直江さんに失礼でしょ」

だんだん母親に似てきた妹が腰に手を当てて睨んでくるのに、高耶はしぶしぶ重い腰を上げた。

受話器がはずれた電話に近づくと、再びあの怒りが湧きあがってくる。
あれから高耶は直江からの電話を無視し続けていた。

(顔も見たくないし、声も聞きたくない!)
という気分だったからだ。
携帯の方を繋がらないようにしてしまったものだから、あの男は高耶が家にいる時間帯を狙って、家にかけてくるようになった。
それも今までは居留守で無視し続けてきたのだが…。

高耶は受話器をそっと持ち上げる。
その音で向うの直江は気づいたらしい。

「もしもし?高耶さんですか?」

受話器から漏れたあの声に、湧き上がった怒りが噴出する。
ガッチャン!
一言も話さずに、受話器を電話に叩き付けた。

「お兄ちゃん!」

後から来た美弥が非難の声を上げるが、高耶は聞かない。

「バイト行ってくる」
とだけ言い残し、家から逃げ出した。



ものすごい音をたてて切れた電話から耳を離し、直江は渋面になっていた。

(これはもう間違いない)

高耶はあの日、マンションを訪れたのだ。
そして女性がいたことに気づいた。というより、自分が浮気したと瞬時に思い込んだのだろう。

あれから5日。まだ高耶と一言も話せていない。
誤解を解くどころの話ではなかった。
高耶の携帯は直江の番号をシャットアウトしているし、家にかけてもいないか、居留守を使うかしてくる。
今日はようやく電話口に来たと思ったらこれだ。
あとは直接会って話をする以外、道はなかった。
今週は兄の手伝いでずっと宇都宮に来ていて、高耶のところに行けなかったのだが、もはやそれどころではない。
早急に高耶の誤解を解くことが、直江の最優先事項となった。

直江はやりかけの仕事を乱暴にまとめると、兄の机に向かった。

「兄さん、途中で悪いんですが、早退させてもらいます」
「なに?何かあったのか?」

律義で家族思いの弟が途中で仕事を投げ出すなんて、初めてのことである。
驚いた照弘に、直江は強張った顔で告げた。

「ええ、ここにいる場合じゃなくなってきましたので。明日も休みを貰います。この埋め合わせはいつか必ずしますから」

それだけ言い残すと、照弘の返事も聞かず事務所を後にしたのだった。





[続]

紅雫 著
(2000.02.03)


[あとがき]
・・・なんだかずいぶん長くなっちゃった(笑)ので、2つに分けてみました。
どうぞ後編の方もお読み下さいませ。


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