White Paradise


【前編】





白い牢獄で、白い狂気に蝕まれた
吐気がするほどの熱い悦楽
男に慣れきった身体は脳を犯す
もう、おまえがいなければ生きていけない――――










直江医院の院長である直江実綱が脳梗塞でこの世を去ったのは、まだ秋の気配が残る、暖かい日のことだった。
病院は大々的な葬儀を行った。突然指導者を失った病院は一時混乱するかに見えたが、どのような事情があろうと治療を疎かにするわけにはいかず、すぐに一人息子で内科医も勤めていた信綱が後を継いで、何事もなかったかのように静寂を取り戻した。
幸い、実綱存命の頃から信綱は経営を任されており、病院関係者は安心して業務を行えた。また患者達も、今までとまったく変わる事のない病院経営に、不満を覚えるものはいなかった。

しかし当然直江信綱の仕事は山積みになり、それまで直江が看ていた担当患者も、他の医師に引き継がれる事になった。
仰木高耶もその一人である。
3日と空けずに高耶の様子を見に来ていた直江だったが、やはり忙しいのか、担当医を外れて以来、顔を見せることはなかった。

そして新しい医師に代わってから10日後、高耶の退院が家族に告げられた。

「やったぁ!お兄ちゃん、よかったね!」

無邪気に喜ぶ妹に微笑みながらも、高耶の心は晴れなかった。
前院長が亡くなる前日の夜以来、高耶は直江の顔を見ていなかった。
それは、本当は喜ばしいことのはずなのに、なぜこんなにも気が重いのだろう。

(どうして……)

素直に退院を喜べない自分に疑問を抱きつつも、話は着々と進められ、4日後の月曜日の朝に退院することが決まった。
浮かない顔をした高耶に気づかないまま、何気なく美弥が医師に尋ねる。

「あの、直江先生にはもうお会いできないんですか?」

高耶はびくり、と弾かれたように顔を上げた。その焦り方に担当医は少し驚きながらも、直江がずいぶん高耶を気に掛けていた事を知っているのだろう、困ったように微笑んだ。

「そうですね、直江先生もずいぶんお忙しいみたいだから。でもきっと、退院前に一度は来てくださるんじゃないかな」

高耶君のことをとても心配していたから、と取ってつけたように言う。
だが、高耶はそれを聞いていなかった。

(また来る…?本当に…?)

ざわざわと身体の奥がざわめき出す。
あの男に慣らされた身体が、意志を無視して暴走する気配。
暗い劣情は、心まで呑み込んでしまったのか。
どこかで男を待っている自分がいることに、高耶は愕然としていた。





白い悪魔を思い浮かべながら、自慰にふける夜
どうして会いにこないのか
自分には飽きたのか、それとももう忘れたのか
それを望んでいたくせに、どうしてこんなに胸が苦しいのか

あの男の名を呼びながら達する瞬間
激しいエクスタシーに酔う
最後の一滴まで絞り取られる
終わったあとの虚しさに、自分を嘲笑う夜

蝕まれた心は、いつかあの男を忘れられるのだろうか
心まで毒が回るその前に、この檻から逃げたかったのに











担当医の言葉に反して、日曜日になっても直江は高耶に会いに来なかった。
もしかしたら、本当に忘れられたのかもしれない。このまま二度と会うこともなく、狂った夜を迎えることもなく、自分はこの白い牢獄から日常世界へと帰って行けるのかもしれない。
だがあの男の毒はそう簡単には消えない。こんな昼間でさえ、あの男のことを考えただけで身体の一点に熱が集まり始める。
じりじりと焼ける身体を持て余して、高耶はすっかり見慣れた病院の中をうろついていた。
そのとき、ふと看護婦達の噂話が耳に入った。

「直江先生、結婚するって本当かしら」
「さあ。でもそうね、院長が独身ってあまり恰好がつかないし。ちょうど年頃だから、いいお話はいっぱいあるんじゃない?」
「ショックぅ、その前に一度でいいからお相手して欲しかった」
「無理よ、無理。直江先生はいつも後腐れのない美人しか選んでなかったでしょ」
「そんなの分かってるけどさ」

(直江が結婚――――!?)

談笑しながら去っていく看護婦たちの後ろ姿を、高耶は呆然と立ち尽くしたまま見送った。





暗い病室の中で、頭から布団をかぶっているのに眠れない。
昼間聞いた看護婦たちの声が、耳について離れない。

(直江が結婚する)

ああ、そうか。だから最近ここに来ないのか。やっとわかった。きっとオレは飽きたオモチャのようなものなのだろう。
だけどそれが、なぜこんなにもショックなのか。
オモチャだと思われていたから?
そんなの今さらだ。あの男の自分に対する扱いは、まさに玩具だったではないか。それともまさか、自分はあの囁きを信じていたのだろうか。
気を失うように眠りに落ちる自分の耳元に落とされた、あの言葉を。
「愛している」という言葉を。
どうして。自分はおもちゃのはずなのに。
どうして。信じていなかったはずなのに。
どうして、オレはこんなことで傷つくんだ。

(どうして……っ)



そのとき、ドアが開く微かな音が耳に飛び込んできた。
もう夜の12時を過ぎている。こんな時間にやってくる人間には、一人しか心当たりがない。
だがあの男がここにくるはずがない。だって、もう自分には飽きたはずなのだ。
それでも他に考えられる人間はいない……。

足音が近づき、高耶のベッドのすぐ脇で止まった。
逡巡しつつ布団から顔を出した高耶は、予想通りの人間を見つけ、驚愕と困惑の入り混じった瞳で男を見上げた。

「こんばんは、高耶さん。眠れないんですか?」

まるで十数日の空白がなかったかのように、直江は微笑んでいた。
いまさら、いったい何をしに来たのか。
高耶は警戒するように、ゆっくりと起き上がった。その視線は片時も直江から外されることはない。
それを心地よく受け止めながら、直江はベッドの端に座った。

「久しぶりですね。元気そうでよかった」
「………」

答えずに睨みつけてくる高耶に、直江は苦笑する。
変わらない、その強い瞳。
所詮自分が得られたのは、快楽に浸りきった一瞬に見せる幻だけだったのだと思い知らされる。
思いがけず離れていた時間は、直江の狂いかけた頭を少しだけ正常に戻していた。同時に自分の想いを再認識することにもなった。

(愛しているのだ、本当に)

これほど愛しかった人なんていない。
こんなに純粋に想ったことなんてない。
だからこそ、今日ここへ来たのだ。
この妄執を、断ち切るために。
彼への想いを、この狂気から救うために。

「そんなに睨まなくても、なにもしませんよ。――――明日、退院でしょう?お別れを言いに来たんです」

高耶は大きく目を見開いた。
信じられないと言う彼の瞳が痛くて、見ないように彼の身体を抱きしめ、頭をぎゅっと彼の肩に押しつけた。
期待してはいけない。
直江は自らに言い聞かせる。
彼は自分を憎んでいるのだ。
彼が自分を愛してくれる日など、永遠に来ないのだ。
どうせなら、彼を自分の狂気に取り込んで、一緒に狂ってしまえればよかったのに、それもできなくて、せめてこれ以上嫌われたくなくて、こうして別れを告げる臆病な自分。
いつか彼を忘れることができるのだろうか。
この身を引き裂かれるような痛みも、いつか忘れられるのだろうか。
それを願いながらも、そんな日は永遠に来ないとわかっている。

(愛している)

あなたに届かない、なんて無駄な言葉。
この想いとともに、今ここで捨ててしまおう。
どうか、自分を忘れないでほしい。
憎しみでいいから、その記憶から消さないで。
願いを込めて囁いた。

「愛している……」

高耶が息を呑む音が聞こえたような気がする。
突き飛ばすように身体を離して、直江は背を向けた。

「さようなら」





[続]

紅雫 著
(2001.03.13)


[あとがき]
35000カウントゲッターSHIRO様のリクエストで、裏500HIT『White Prison』の続きでございます。
「ハッピーエンドで」とのことなのですが……あれ?ハッピーじゃない?(笑)
まあ後編では一応ハッピーになる予定ですので、ご心配なく。


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