White Paradise


【後編】





「……ぃちゃん、お兄ちゃんってば!」
「え、な、なに?」

どうやら自分はぼんやりしていたらしい、ベッドの横で美弥が心配そうに見つめていた。
月曜日、退院した高耶は、数ヶ月ぶりに我が家へと帰ってきた。もちろん今後もしばらく通院するし、あまり無茶はできないが、それでも入院しているよりはだいぶ気分も違う。
久しぶりに家族揃って食事をし、他愛もないことで笑いあい、優しい時間を過ごした。
だが、高耶の心は常にあの男の姿を映していた。
いつもの悪魔のような笑顔ではなく――――去る間際に見せた、泣きそうな微笑を。
今もまた、早い時間ながらもベッドに入って外を眺めつつ、高耶は昨夜のことを思い出していたのだった。

「お兄ちゃん、退院したから疲れちゃった?今日はもう寝る?」
「ああ、うん…。ごめんな、美弥。せっかく帰って来たのに…」
「気にしないで。お兄ちゃんが帰って来ただけで嬉しいもん。これから、きっともっと元気になるでしょ。そしたらいっぱい遊ぼうね」
「ああ」

優しい妹の心遣いに、高耶はそっと微笑んで見せた。





一人になってから、罪悪感に小さくため息をつく。
本当は疲れてなどいなかった。ただ、静かに考えたかったのだ。
あの微笑と、別れと、そして言葉は、いったいどういうつもりだったのか。
看護婦たちが言っていたではないか。直江は結婚するんだと。結婚する男が、ただのオモチャにどうしてあんなことを言うのか。あんな真剣な顔で言われては、信じたくなってしまう。
ますます混乱してきて、高耶はベッドに突っ伏し枕に顔を埋める。
一番わからないのは、自分の心だ。
嫌っていた。憎んでいた。それは確かだ。
だけどいつからか、それだけではなくなっていた。きっと肉欲に引きずられているのだと思っていた。いや、思いたかったのか。
揺れていた気持ちは、昨日の夜からもっとおかしくなった。
高耶の気持ちは、もうごまかしきれないところまできてしまっていた。

――――会いたい。
もう一度会って、あの言葉が本当かどうか確かめたい。
確かめて、そして……。

高耶はゆっくりと顔をあげた。













ひんやりとした空気が流れる窓辺に立って、暗闇に沈む街並みを眺めながら、直江は細く紫煙を吐き出した。
もう時刻は日付変更線を越えている。だが寒々とした家に帰る気にならず、仕事があるわけでもないのに、直江は院長室に留まっていた。
――――違う、本当は、まだどこかで期待しているのだ。
ここで待っていれば、また彼が戻ってくるのではないか。
再び体調を崩し、運ばれてくるのではないか。
そう思って、帰れないでいるのだ。

(最悪の医者だな)

タバコを灰皿に押しつけ、唇を自嘲の形にゆがめた。
捨てようと決めたはずの想いは、いまだ自分の中でくすぶり続けている。
高耶に会いたかった。
再び会うことができたなら、今度こそこの腕の中に閉じ込めて、二度と離さないのに。

(かなうはずもない夢想くらい、してもいいだろう?)

どのみち、彼がここに来るはずはないのだから。
そう、二度と会うことはない――――。



そのとき、聞こえないくらい控え目に、ドアがノックされた。

(なにかあったのか?)

自分が出なければならないような問題でも起きたのだろうか。それにしては、病院内は静かだ。
怪訝に思いながら、直江は促した。

「どうぞ」

ゆっくりと開いたドアから現れた人影を見て、直江は驚愕に目を瞠った。
一瞬、夢を見ているのかと思った。

「高耶さん!?」

視線を床に落として入ってきた高耶は、後ろ手にドアを閉めて佇んだ。
緊張しているのか、その表情は硬く強張っている。いや、緊張だけではないのか。小刻みに震える身体は、直江に外の気温を思い出させた。
慌てて近寄ると、びくり、と肩を揺らす。その怯え方に直江の手は一瞬止まるが、それ以上逃げようとしないのを見て、そっと頬に手のひらを当てた。
とたん、その冷たさにぎょっとする。

「こんなに冷えて…!まさかあなた、家から歩いてきたんですか?」

この時間、バスはもう走っていない。タクシーはあるだろうが、子供が一人で乗るには高すぎる。だが、高耶の家から病院まで、歩けば2時間はかかる。冬の夜に、病み上がりの人間が歩く距離ではなかった。

「いったいどうして…。なにか、あったんですか?」
「………」

直江の声が耳に入っていないのか、高耶は返事もしない。
なぜ退院した高耶がこんなところにいるのか、すぐにも聞き出したいところだったが、とりあえずはこの冷え切った身体を温めてやらなければ。
直江は部屋のエアコンの設定温度を上げると、高耶をソファに座らせ、自分が今まで着ていた上着で包み込んだ。
それだけでは足りないので、予備の毛布を取りに行こうとしたとき、高耶がはじめて顔をあげた。

「直江……」
「少し待っていてください、今、毛布と温かい飲み物でも持ってきますから」
「いい、いらない。いらないから……」

そう言って、ひたむきに直江を見つめてくる。

「直江、オレ、確かめたいことがあって、来たんだ」
「……確かめたいこと?」

寒さのためなのか、微かに声が震えている。
まっすぐ自分を見つめてくる瞳はなぜか、いつものように憎しみや怒りを宿してはいなかった。
その瞳に引きずられるように、直江は高耶の横に腰を下ろした。

「あの言葉が、本当かどうか…」
「高耶さん?」

高耶は一瞬躊躇うように視線を落とし、再び強い光をともして直江を見つめる。

「オレを愛してるって、本当?」

直江は息を飲んで、高耶を見つめた。
高耶は怖いくらい真剣だった。少し瞳を潤ませ、頬を紅潮させながらも、直江の言葉を一言も聞き漏らさないように、直江を見つめ続ける。
直江は困惑していた。
なぜ、彼はいまさらそんなことを聞きたがるのか。
自分に都合のよい展開を思い浮かべ、慌てて打ち消す。
そんなことがあるはずない、と。
高耶が、自分を愛してくれているなんて、あるはずがないではないか。
言ってはいけないと、理性が止めた。
なんのために、昨日高耶を手放したのか。
この狂気を封じ込めるためではなかったのか。
ここであの言葉をつむげば、もう自分を止められないのがわかっていた。
だが心は暴走する。

――――愛している。こんなにも、あなたを……

高耶は直江の答えを待っていた。
ひたすらその口唇が動く瞬間を待っていた。

ゆっくりと、男の口唇が開く。
掠れた声が押し出された。

「……あなたを、愛している……」
「……!」

もう、止まらなかった。
零れてしまった想いを伝えるように、目を見開いた高耶を折れるほど抱きしめた。

「本当です、愛している。この気持ちが嘘のはずがない!」
「直江……」

きつく抱きすくめられ、高耶が苦しげに喘ぐ。それすら狂った耳には届かず、直江は再び戻ってしまった狂気に今度こそ身を委ねかけた。

高耶が、恐る恐るしがみついてくるまでは。

逃げるのではなく、全身で縋りついてきた高耶に、直江は高耶の髪に顔を埋めたまま目を見開いた。

「オレも…直江が、好きだ」

信じられない言葉に呆然とする。
聞き間違いかと思った。
だが、誰より愛しい人の言葉を、聞き間違えるはずがない。
空耳でもない。

(高耶さんが…俺のことを…?)

高耶の顔が見たくて、身体を離そうとするが、高耶は直江の肩に顔を埋めたまま離れない。
呆然としたまま、ゆっくりと心を落ち着かせるように尋ねる。

「高耶さん、本当に?」
「本当…」
「俺のことが、好き?」
「……好き」
「そんな、いつから…」

憎まれていると、嫌われているのだと、ついさっきまで信じ込んでいたのに。
高耶は少し首を傾げ、小さく話しだした。

「ずっと、憎んでるんだと思ってた。おまえが怖かった。だけど、おまえが愛してるって言うから………なのに…」
「高耶さん?」
「…おまえ、結婚するって…」

突然思いもよらないことを言い出した高耶に、直江は眉をしかめる。

「私は結婚なんてしませんよ。こんなにあなたを愛しているのに、他の誰かと一緒になんてなれない」
「……だけどオレ、オモチャだったのかと思って、ショックだった。ずっと遊ばれてただけなんだって、そう思ったらすごく悲しくて…」

それで初めて、もう憎めなくなっていることに気づいたのだ。
自分が直江のことを好きになっているとわかったら、じっとしていられなかった。身体だけでなく、心まで直江がいなければいられないようになってしまっていた。
いつも夜だけ本性を現した男の、発した言葉も本当のことなのか、確かめずにはいられなかった。
高耶はそっと下から直江を見つめ、再び確かめるように呟いた。

「オレのこと愛してるって、本当だよな」
「本当です。あなたしか、愛していない。あなただけを愛している。どうか信じて。あなたをオモチャだと思ったことなんて、一度もないんです」

――――愛しているから、手に入れたくて酷いことをしてしまった。

再びきつく抱きしめて、直江は懺悔するように耳元に囁いた。
ようやく、直江は今この手の中にいる高耶が現実なのだと実感し始めていた。
夢じゃない、幻じゃない。
こうして、高耶が自分を好きだと言ってくれている。
あんなに愛しく思った人が、腕の中にいてくれる。



「高耶さん、愛している」
「直江…」
「もう離さないから。どんなことがあっても、あなたが嫌がっても、あなたは私のものだ」
「直江……」
「愛している……」
「なおえ……」










とらえたのは 身体
とらわれたのは 心
おとしたのは 悪魔
おちたのは―――オマエ

白い牢獄が消える
逃げ出したかった檻は、もうどこにも存在しない

ここは二人だけの、白い楽園





[終]

紅雫 著
(2001.03.20)


[あとがき]
なんとか二人はラブラブな関係になれたようですが……高耶さん、ホントにそれでいいのか!?(笑)
こんな変態鬼畜医者のどこがいいのか、書いた私ですら全然わかりませんでした…。
いまいち高耶さんが直江を好きになる展開が急すぎて、脈絡がないように思われます(苦)。しかし私にはこれが精一杯。
SHIRO様、駄文で申し訳ございませんが、これをもって35000カウントゲットの御礼にさせていただきます。
ありがとうございました♪


<戻 目次


サイトに掲載されている全ての作品・画像等の著作権は、それぞれの製作者に帰属します。
転載・転写は厳禁させていただきます。
Copyright(c)2000 ITACHI MALL All rights reserved.