【8】
自宅にかかっている表札を見て、高耶は首を傾げた。 「どうしました?高耶さん」 車をしまっていた直江が高耶に追いついて、声をかける。 「直江、なんで橘なんだ?」 高耶は疑問をそのまま口にした。 「ああ、説明していませんでしたか」 すみません、と柔らかく微笑んで、直江は理由を教えた。 「実は私には名前が二つあるんですよ。『橘義明』と『直江信綱』と。『直江』というのは母の実家の名前なんです」
これを機に義明はもとの橘の家に戻ったのだが、直江家の財産を継ぐものとして、名前は直江信綱のままにしておかれたのだった。
良く分からないといった顔をして、困ったように高耶が聞く。 「いいえ、高耶さんは『直江』と呼んで下さっていいんですよ。それも私の名前なんですから」 というと、優しく髪の毛をすいてやる。それで高耶はほっとして目を細めた。 「さあ、中に入りましょう」
「高耶くん、これからは家族なんだから遠慮はしないでいいからな」
誰も彼もが高耶を構いたがる。 (それにしても…) と直江は思い、高耶の側でにこにこ笑っている姉を見ながら、2番目の兄である義弘にこっそり声をかけた。 「照弘兄さんがいるのはいいとして、なんで冴子姉さんまでいるんですか」
照弘とは長男である。同じ敷地内にいることもあり、よく顔を見せるので今ここにいても不思議ではなかった。 その疑問に、義弘は苦笑いをしながら答える。 「この間の葬式で高耶くんを見かけて、ずいぶんと気に入ったようだったからな。わざわざ彼に会いに来たんだろう」
直江は思わず額を押さえた。
だが、今まで家族といえば養父だけだった高耶には、戸惑うことはあっても迷惑だとは思わなかった。
なんだかくすぐったい気分でふと視線を上げると、少し離れたところから直江も優しく笑いかけてくれた。 まるで天使のような純粋で透明な微笑み。
直江は自分の中の獣が動くのが分かった。必死で押さえつけながら、高耶に微笑み返す。 それでも自分の獣のような感情は暴れて叫んでいる。 (愛している…)
いつかきっと傷つけてしまう…。
高耶は最初「一緒に行く」と言ったものの、直江がほんの数日で戻ること、その間1人ではなく橘の家の人がいることもあって、大人しく留守番をしていることになった。 前はあんなに駄々をこねたのに、と少し寂しく思いながらもほっとする。
「それじゃ高耶さん、3日ほどで戻りますから、待っていて下さいね」
高耶は一瞬心細そうな瞳になるが、素直に頷く。 「おみやげ買ってきますから」 と言って車に乗り込んだ。
ダークグリーンのウィンダムが走り去っていく。高耶は門まで出て、影が見えなくなるまで見送っていた。 このとき高耶を置いていったことを、後日直江は深く悔やむことになる。
[続]
紅雫 著 [あとがき] 「ようやくここまできたか」という気分です。第1部が終わってから今までの話は、実はただの挿入話で、これからが本題なんですよね〜(笑)。 それにしても、ようやく連載らしい「引き」がラストに入って嬉しいです。今までって本当に話を途中でぶった切った感じでしたから(笑)。 それでは次回をお楽しみに♪ |
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